吉浦豊久「禿頭蕪村について」 | 詩はどこにあるか

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吉浦豊久「禿頭蕪村について」(「ANTHOLOGY TOYAMA2008」2008年11月01日発行) 

 吉浦豊久「禿頭蕪村について」は俳人蕪村、南画家蕪村のふたりについて書いたものである。

深夜二時頃
ハゲた蕪村が 尻からげて 土砂降りの室町通を小走りに
馬提灯が欲しいなどと 連れの太祇に話しかけながら
師走の句会の帰えり

そんなことを思いながら
研ぎだされたカエデ葉やつつじの花に 蕪村を嗅ぎ廻った
五月晴れの京都の朝は気持ちいい
ここは 詩仙堂の山続き 金福寺の裏山
ここには 蕪村が再興したカヤ葺きの蕪村庵や 与謝蕪村の墓があり
門人呉春景文兄弟の墓などもある

祇園祭が一名屏風祭とも呼ばれ
蕪村の俳諧一門に京の富裕層が多かった
そこで生まれたのが屏風講
病いで倒れる位描きまくった軸屏風の稼ぎを
茶屋遊びに注込んでいた蕪村という男

  ほととぎす平安城を筋違に

俳人蕪村は中学生でも知っているが 南画家謝春星となると それ中国の人け
竹田曰く「大雅逸筆 春星戦筆」
謝春星は蕪村の画号の一つである
門人松村呉春の描いた法衣の禿頭蕪村像が残っている

 どう感想を書いていいのかわからなかった。なんにも考えずに、ただ、蕪村の禿頭の肖像(呉春が描いたもの)を見て、思いつくままに、ことばを動かしている。そのことばにしたがって蕪村が、ふわっと浮き上がってくる。それだけ--といっていいのかどうかわからないが、そういう詩である。そして、思いつくままなのに、なぜか、そこに「文体」がある。「わざと」を感じる。「わざと」そういう書き方をしているのだ、という印象がある。つきはなしたような、一種の「距離」がある。そのために、不思議な「清潔感」がある。なまなましくない。蕪村が、たとえば金稼ぎのために軸屏風を描きまくった、そしてその金で茶屋遊びをした。放蕩をした、と書かれているのだが、そのことが、不思議に「くらし」と密着してこないのである。さっぱりとした「笑い話」のように響いてくるである。
 なぜか。
 「それ中国の人け」
 ふいに挿入された富山弁が、蕪村を「くらし」から引き剥がしてしまうのである。「それ中国の人け」とは「それは中国の人ですか?」という疑問形、質問なのだが、そういう蕪村を知らない人の「くらし」がふいにでてきた瞬間、吉浦の書いていることが「くらし」から切り離される。
 吉浦のことばは「文化」のことばである。そこに書かれている蕪村像も「文化」の像である。茶屋遊びで放蕩しても、それは放蕩という「文化」なのである。
 富山で、ふつうにくらしている人とは無関係である。
 この「無関係」という視点が「清潔感」をひきだしている。

 きのう、私は、廿楽順治の詩の感想を書いた。廿楽のことばは「無関係」とは逆である。何から何まで、ずるずるっとつながっていく。境目がなくなる。そして境目が消えた瞬間、「肉体」が浮かび上がってくる。それはなつかしくて、同時に、あたたかい。
 廿楽とは逆に、吉浦のことばは「無関係」ということを「くらし」に対して宣言している。「くらし」とは無関係である何か--それは、一方で、「文化」と深く結びついている。
 「文化」の「くらし」からの切り離しがおこなわれている。ちょっと、高踏的である。そのために、「現代詩」とは「距離」がある。「現代詩」と無縁のまま、「詩」をめざしているのかもしれないけれど、うーん、と考え込んでしまった。