『田村隆一全詩集』を読む(39) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 『小鳥が笑った』(1981年)に、おかしな作品がある。「動物園の昼さがり」と「おやすみ ワニ」。この作品は2つで1篇である。いや、「おやすみ ワニ」の方はまだ1篇として独立しているといえるかもしれないが、「動物園の昼さがり」は「おやすみ ワニ」の前書き(?)なのだから、1篇とはいえないかもしれない。けれど、その1篇未満の詩がなぜか私は好きだ。

ロンドンの動物園の昼さがり
やっと春がきて色とりどりの
クロッカスの花が咲いていて

サイもライオンもペンギンも
退屈そうな顔をして昼寝して
いたりしてぼくは動物園の中
居酒屋でウイスキーを飲んで
いたら突然ワニの親子を思い
出した 父の背中に五センチ
ほどの子どもがのっていて父
も子も眠っていたが母親だけ
は大股をひろげて目だけパッ
ちり明けているのさ そこで

 作品は、これで終わり。そして、次のページに「おやすみ ワニ」という作品がある。

おやすみ ワニ
ワニの父と子 その
母親
リージェント公園にはやっと春がきて
クロッカスの花々が咲いていて

 「動物園の昼さがり」の末尾、「そこで」のあとには、「次の詩を書いた」とでもいうべき1行が隠されている。この1行が隠されていることは、2篇をつづけて読んだ読者にははっきりわかる。そして、この1篇は、その隠されている1行にのみ「意味」がある。いわゆる「意味」--人と人との関係において、何かを伝えるというときの「意味」がある。
 ことばが、もし、「意味」を伝えるためのものだとしたら、あるいは文学作品が、なんらかの「意味」を伝えるものだとしたら、(国語の試験の、文意を「要約せよ」というときに「答え」として各戸とのできるものだとしたら)、この作品には「意味」が書かれていない。「意味」を放棄している。
 別なことばでいえば、ここでは、どうでもいいことが書かれているである。「おやすみ ワニ」のタイトルのあとに副題として「ロンドン、リージェント公園で」と副題をつければすむようなことを、1篇にしたてている。
 詩を読んだことのない読者なら、こういう作品を「無意味」というかもしれない。たしかに「無意味」である。
 そして、だからこそ、詩なのである。
 詩になにかしなければならない仕事があるとするならば、「無意味」が存在することを明らかにするのが仕事である。「意味」をあきらかにするのではなく、「意味」を拒絶し、破壊し「意味」以前の状態、「未分化」の世界をことばとして存在させることが仕事である。

 この詩は1行が13字である。そして13行である。(1行の空白をどう数えるかで、14行という人もいるかもしれないが。)途中までは1行でひとつの文節がおわるようにことばを選んでもいる。なかほど「いたりしてぼくは動物園の中」という行は、1行13字という田村自身の設定した「条件」のために、とても不自然な形をしている。もし、「意味」を伝えることがことばの仕事(文学の仕事)であるとしたら、この1行はとても不親切である。その前の行との「昼寝をして/いたりして」という「わたり」はそうだけれど、「動物園の中」という1行の終わり方、そして次の行の「居酒屋で」という飛躍が、とても不親切である。
 田村は、ここでは13字13行という形に「無意味」にこだわっているのである。そういう「こだわり」も詩のひとつである。次の作品の「前書き」にとって、ことばが正方形(?)の文字列になっているかどうかなど、まったく「無意味」なことである。そういう「無意味」によって、この作品は詩になっている。

 そして。

 この13字13行という「形」にこだわってみせている部分にはもう一つ、とてもおもしろいことが隠されている。

いたりしてぼくは動物園の中
居酒屋でウイスキーを飲んで

 これは、13字13行の形に目を奪われて読んでいると、13字13行にするために、「動物園の中」のあとに「の」が省略されているというふうに読んでしまいそうである。

動物園のなか「の」居酒屋で

 と読んでしまいそうである。
 しかし、そうなのだろうか。動物園の中に居酒屋があり、そこでウイスキーを飲んでいたら、ワニを思い出したということなのだろうか。
 違うのではないだろうか。だいたい、動物園に、居酒屋があるだろうか。

退屈そうな顔をして昼寝して
いたりしてぼくは動物園の中

 という2行には、行の「わたり」がある。「昼寝をして/いたりして」は、学校教育の文節では「昼寝を/していたりして」である。それを無視して「わたり」があるために、「動物園の中/居酒屋で」も一種の「わたり」として読んでしまうのだが、これは田村の仕組んだ「わな」、「わざと」書いた部分である。
 「動物園の中」と「居酒屋で」のあいだには、「間(ま)」がある。その「間」を田村は「わざと」消している。
 最後の1行「次の詩を書いた」という省略は、だれにでも想像がつくが、この「間」の消去は見落とされるのではないだろうか。「間」が消されているというよりも、「の」が省略されていると読まれるのではないだろうか。
 しかし、ここには「間」があるのだ。

 田村が動物園へ行ったのはたしかである。居酒屋へ行ったのもたしかである。しかし、それは同じロンドンではあっても、離れた場所である。動物園の中に居酒屋があるのではない。
 居酒屋で、ふいに動物園を思い出したのだ。クロッカスの花もワニの昼寝もふいに思い出したのだ。居酒屋で動物園の花々の話をしていたら、ふいにワニの昼寝を思い出してしまったのである。花々とワニの昼寝のあいだにもいっしゅの飛躍があるが、そういう飛躍を消えて、ことばがショートする一瞬。
 ショート、短絡、という「間」。
 これが、ほんとうは詩である。

 詩とは異質なものの出会い。出会ったとき、そこに「間」がひろがるのではなく、「間」がショートして、火花が飛び散る。その驚き。驚きの輝き。ちょっと怖い。でも、そのちょっと怖いのが好き、という興奮。

 なんでもない「前書き」のようなことば--だけれど、そこには、そういうものが隠されている。ショートした「間」が隠されている。
 このショートした「間」の変奏が「おやすみ ワニ」の最後に出てくる。

生命の水こそ
ウイスキーの語源で
その水を飲みに
ロンドンのパブへ行ってみたら
四百年ぐらいたっている居酒屋で
そのローソクの灯をともして
人間の存在と行為についてぼくらは論じながら
哄笑するのだ シェークスピア役者だってワニを背中にのせて
ドアをあけて入ってくるかもしれない

 突然のシェークスピア役者とワニの出会い、そして闖入。そのショート。ショートという「間」。そこに詩がある。

 田村の作品について、私は何度も、矛盾、衝突、止揚ではなく解体、そして何もなくなったところからの生成というようなことを書いたが、その生成、誕生はゆっくりおこなわれるのではない。ショート、短絡の形で、突然、ぱっと出現するものなのだ。

田村隆一ミステリーの料理事典―探偵小説を楽しむガイドブック (Sun lexica (12))
田村 隆一
三省堂

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