『田村隆一全詩集』を読む(38) | 詩はどこにあるか

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 『水半球』には「木」がたくさん出てくる。「木」というタイトルのものもある。

木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空に向かって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしたにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない

若木
老樹

ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光りのなかで
目ざめている木はない


ぼくはきみのことが大好きだ

 「意味」がとても強い詩である。「意味」とは、ことばを利用して姿をととのえる論理、見えないもののことである。「意味」とは、論理をととのえる力である。私たちの意識はいつも乱れている。右往左往する。それをととのえるのが「意味」の力である。「意味」に価値があるのではなく、ととのえる力に価値がある。

 この詩の、いちばん不思議なところは、そして、誰もたぶん不思議と思わずに、無意識に読んでしまう行、あるいは、その展開は、

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で

 という2行である。「見る人が見たら」というのは慣用句である。誰もがつかう。見る人が見れば、わかる、と。それが慣用句であるために、たぶん見落とすのだが、この2行には飛躍がある。逸脱がある。
 「見る」とは「わかる」、「見える」とは「わかる」ということだが、田村は、その「見る」を「わかる」という精神の動きではなく、「聞く」へと動かしていく。感覚をずらしている。視覚と聴覚を融合させ、そういう融合のありようが、「わかる」ということなのだと告げている。
 田村は「聞く」ということばのかわりに「囁く」「声」という表現をつかっているのだが。
 「囁く」(囁き)、「声」を認識する、識別する、「わかる」のは「見る」機能をになっている「目」ではなく、「耳」である。
 田村は、木を見ながら、耳を働かせている。目から逸脱して、耳で木をとらえている。そして、その逸脱--見ているはずなのに聞いているという状態を通るために、そこから「世界」が変化しはじめる。視覚と聴覚がとけあい、肉体のなかで感覚の融合がはじまるので、

木は歩いているのだ 空にむかって

 という、普通の目には見えないものを見る。感覚の融合、肉体の機能の融合が、普通に言われている目で見えるものを超えて、普通には存在しないものを見てしまう。融合した肉体が、見えないものを見てしまう。

 そして、そういう普通は存在しない状態を出現させるのが、ことばである。
 このとき、ことばは「肉体」を通っている。「肉体」がすべてを融合させ、解放するのである。私たちの目も耳も体から分離できない。それは、それが独立していながら、同時に互いに何かを、ことばにならないなにかを、共有し、その共有する力で、硬くつながっているということでもある。
 硬くつながり、深いところで溶け合っているにもかかわらず、私たちは便宜上、「目」「耳」とその一部を呼び、そして「見る」「聞く」という機能を割り振って分類している。
 ところが、それはほんとうは、肉体の中のどこかでは「未分化」なのである。
 その「未分化」の「場」をくぐり抜けるとき、「目」は「肉眼」になる。「耳」は「肉耳」(?--こんなことばはないけれど)になる。そして、そういう「未分化」の肉体をとおしてふれあったものを、人間は「大好き」になる。
 「好き」とは、「未分化」の「肉体」の叫びなのである。「愛」とは、「未分化」の「肉体」のいのりなのである。

 そういうことを踏まえて、『水半球』の巻頭の「祝婚歌」は読むべきである。ここにも「木」が出てくる。

おまえたち
木になれるなら木になるべし

おまえたち
水になれるなら水になるべし

(略)

ただし人の子が人になるためには
木のごとく
水のごとく
そして(ここが重要なのだが)
木にならず
水にならず
鳥にならず

言語によって共和国をつくらざるべからず
人よ 人の子よ
ぼくをふくめておまえたちの前途を心から
祝福せん
されば

 これは、「未分化」の「肉体」への勧めである。「愛」とは「肉体」を発見するためのさけては通れない「場」である。



現代の詩人〈3〉田村隆一 (1983年)
大岡 信,谷川 俊太郎
中央公論社

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