『田村隆一全詩集』を読む(36) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「きみと話がしたいのだ」は、おだやかなラブソングである。

不定形の野原がひろがつている
たつた一本だけ大きな木が立つている
そんな木のことをきみと話したい
孤立してはいるが孤独ではない木
ぼくらの目には見えない深いところに
生の源泉があつて
根は無数にわかれ原色にきらめく暗黒の世界から
乳白色の地下水をたえまなく吸いあげ
その大きな手で透明な樹液を養い
空と地を二等分に分割し
太陽と星と鳥と風を支配する大きな木
その木のことで
ぼくはきみと話がしたいのだ

どんなに孤独に見える孤独な木だつて
人間の孤独とはまつたく異質のものなのさ
たとえきみの目から水のようなものが流れたとしても
一本の木のように空と地を分割するわけにはいかないのだ

それで
ぼくは
きみと話がしたいのだ

 「ぼくらの目には見えない深いところ」--目に見えないものを人間は想像することができる。その想像のしかたにはいろいろある。田村の想像力は特徴がある。
 「根は無数にわかれ」は「木の根」を肉眼で見たことをもとに想像している。それは想像ではあるけれど、事実であることも、多くの人が知っている。他の、「地下水をたえまなく汲みあげ」「樹液を養い」も実際に肉眼で見たことはないけれど、そうであることをわたしたちは「知識」として知っている。それは田村が肉眼で見たものではない、つまり、想像したものであるけれど、「事実」の範囲のなかにふくめて考える。
 では「原色にきらめく暗黒の世界」はどうだろうか。
 「原色にきらめく」と「暗黒」は矛盾する。何もきらめかないのが「暗黒」である。「黒」しかないのが「暗黒」である。これは、肉眼では確認できないし、科学でも分析できない。想像でしかない。そういう想像に、田村の特徴が出る。矛盾。矛盾したものが想像力のなかでぶつかるという特徴が。

 相いれないものが常にある。

 一本の木は孤立しているが、孤独ではない。1本なのに孤独ではない。孤立しているのに、孤独ではないというのは、これもひとつの矛盾である。その矛盾を、田村は、なぜなら、それは大地と空とつながっているから「孤独」ではない、と言い換える。
 ここには、飛躍がある。
 ふつう、複数形というものは、同じ単位(木なら1本という単位)で数える。違った存在を同じ単位では数えない。種類の違ったものを違った単位で数え、混同しないというのが「科学」の基本である。その基本を逸脱していくのが「想像力」である。「単位」を無視して、ねじまげる。そして「単位」のかわりに、別なものをもって来る。
 想像力とは、事実(科学)をねじまげて、逸脱する力。間違いを犯す力なのである。間違いを犯しながら、その間違いを正当化する力なのである。ここでは「見えない」ということを「口実」にして、強引に間違える。

 こういう強引な「口実」を美しいと感じる--すくなくとも私は美しいと感じるのだが、それはなぜだろうか。--たぶん、私たちは、事実を間違えたがっているのかもしれない。

 孤独--孤独のなかで流す涙。それは一人の人間の中の「きらめく暗黒」と「空」を分割し、同時につなぐ、のではなく、もう一人の人間の「きらめく暗黒」と「空」を分割し、同時につなぐのである。涙をみる時、「きみ」と「ぼく」のあいだに、何かが流れる。涙は「きみ」の頬を流れ、目に見える。しかし、「きみ」と「ぼく」をつなぎ、分割するものは、肉眼では見えない。
 それは、ことばでしか見えない。
 だから「話がしたい」。「話す」ことで、そのつながりを「事実」にしたい、というのである。

 こういうおだやかな詩にも、田村の特徴はそのまま同じ形で存在している。目に見えないものを、ことばでつかまえる。その方向へ、こころを動かしていくという特徴が。




ハミングバード―田村隆一詩集
田村 隆一
青土社

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