ぼくの不幸は抽象の鳥から
はじまつた
その鳥には具象性がなかつた
色彩も音もなかつた
冒頭の4行は、高踏的である。緊張感があり、詩ということばが連想させる何かがある。ことばの疾走感。リズム。そういうものがある。
雪のうえに足跡があつた
足跡を見て はじめてぼくは
小動物の 小鳥の 森のけものたちの
支配する世界を見た
これは具体的である。森と雪と小さな動物たちの姿が具体的に見えて来る。
さて諸君、ぼくは抽象から脱れるために、疑問符と直線に注目した。では、曲線とはなにか? 曲線のリズムとはなにか? 盲目的なリズムに魅せられて、ぼくの足どりもフォックス・トロットになれば幸いである。
抽象的、あるいは比喩的な文章である。そして、抽象的であることを自覚し、その抽象性を「フォックス・トロット」--狐の足跡から見つめなおそうとしている。最初に引用した4行を、次に引用した行の世界で批評しようとしている。人間(抽象的な思考をしてしまうもの)を、小さな動物の視点で見つめなおし、批判しようとしている。
そういう過程を通って、ことばは、次のように結晶する。
鳥の目は邪悪そのもの
彼は観察し批評しない
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は嚥下し批評しない
鳥(小さな動物、生き物)と人間が対比される。小鳥の目は「邪悪」と定義されているが、これは田村流の逆説である。肯定としての「邪悪」である。それは、人間の「抽象」「批評」というような精神の動きを拒絶するという意味である。抽象を否定し、破壊し、拒絶する力への称讃が、「邪悪」ということばで表現されている。
それはたしかに抽象・批評にたよって生きている人間にとっては有害である。彼を否定して来るからである。
ここから、田村は、もう一度考えはじめる。鳥が(小さな動物が)、「ぼく」を、つまり「人間」の精神の動きをそんなふうに拒絶するのはなんのためなのか。それには、いったいどういう意味があるのか。
ここからは、論理の力でことばを動かしていく。
千の針 万の針によって、ぼくはぼくの不幸を告知されたが、それでは降服を 告知してくるものは、いったいなにか? そこで「物」がはじめて現れる。物が生まれて、人間が幸福になるという、見事な例証が、ここにある。物は、人間の手によって産み出され、その産み出されたものが「人間」を造るという、若干逆説的で、しかも美しい有機的な関係を体験するなら、人は人になるだろう。人と物の交りなくして、この世の文化は存在しないからである。
人間と動物の違いは「物」をつくるかどうかである。そして「物」は「文化」そのものである。動物にも「文化」はあるが、それは特殊な領域であって(動物学から見た世界であって)、人間の「文化」とは違う。人間は、生きるため(生き延びるため)に「文化」をつくるのではなく、「遊ぶ」ために「文化」をつくる。きのう読んだ「毎朝 数千の天使を殺してから」の最後の方にでてきた「遊ぶ」。それが「文化」である。役に立たない--暮らしに役に立たないということよって、人間の「いのち」に役立つなにか。逆説を含んだ何かが「文化」である。
そういう「論理」の文体をくぐり抜けて、田村は、ミロを、滝口修造を、引用し、つまり他人の視力とことばがつくりだした芸術で、それまでのいくつもの文体を洗い直して、最後に、それまでの文体とは違った次元へ飛翔する。
この世に他界あり、その詩的経験をするためには、
ある晴れた日、
ミロという石版のかがみにむかつて、
飛び込んでみようよ。
たぶん、
ミロの小鳥のように自殺には成功しないだろうが、
ぼくらが
転生
することだけは
たしか。
「他界」「自殺」「転生」。
この三つのことばは、私には、とてもなじみがあることばに響く。そのままのことばではなく、次のように言い換えると、それがぐいと身近に感じられる。
「他界」は「矛盾」である。この世にはほんらい存在しないものである。この世ではないものが「他界」である。
「自殺」とは「死」である。「破壊」である。
「転生」とは「再生」「生成」である。
矛盾→破壊→生成という運動が、ミロをくぐり抜けることで、「他界」「自殺」「転生」ということばに書き換えられているのである。あるいは、補強されているのである。
あらゆる芸術・文化(遊びのためにつくりだした「物」)は、人間に、いま、ここにあるものではないものの存在を知らせる。ここにないものが、ここにあるというのは論理矛盾だが、そういう論理ではとらえられないものの力で、この世界をつくりあげている枠組み(構造)を破壊・解体する。それは、それまでの自己の死につながるが、その死を経験することで、「自由」を獲得する。自己から逸脱し(エクスタシーである)、「自由」のなかで生まれ変わる。再生・生成・誕生。
1篇の詩のなかで、いくつもの文体をくぐり抜けながら、ことばでしかたどりつけないものに達する。--詩に到達する。
いくつもの文体、複数の文体は、文体の乱れと呼ぶこともできるが、その底部を流れるものが乱れていないければ、乱れではない。乱調ではなく、変奏である。変奏を繰り返すことで、浮かび上がって来る「テーマ」というものもある。いくつものことばを生きながら、ほんとうのことばを探しているのである。
青いライオンと金色のウイスキー (1975年) 田村 隆一 筑摩書房 このアイテムの詳細を見る |