森川雅美「(何も語らない)」、新延拳「遠い祈り」 | 詩はどこにあるか

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森川雅美「(何も語らない)」、新延拳「遠い祈り」(「現代詩図鑑」2009年冬号、2009年02月20日発行)

 森川雅美には1行がかなり長い詩がある。私は、そのときの森川のことばのリズムが嫌いである。「肉体」を欠いている。「頭」でことばを動かしている。ところが、1行が短いと、とてもいい。「頭」がことばのなかに入り込む余地がないのだろう。

何も語らない
地図の表層の地軸はずれる
傲慢な笑顔たちと
急激な出帆
走れ走れ走れ
煙の片腕に落ちる
青空を払い落とすこと
誰もが水を噛む
壁の傷は崩れる前に割れる
残酷な折り返し点と
少量の紅葉
走れ走れ走れ

 前半を引用したのだが、たとえば、そのなかの次の2行

煙の片腕に落ちる
青空を払い落とすこと

 これは1行ずつ独立したものとして読むことができる。また、また先行する「煙の片腕に落ちる」を次の行の「青空」を修飾することばとしても読むことができる。それは読者にまかされている。森川はそれをどちらかにしようと「頭」でことばを押さえ込んでいない。そのためにリズムが自由になる。解放される。そして逸脱していく。
 そして。
 あ、ちょっとどこへ動いているのかわからない--乗りすぎてしまった、と思ったら、思い出したように「走れ走れ走れ」ということばに戻って来る。戻って来て、というか、戻って来たからこそ、まるで出発点のときの元気さでさらにことばが加速する。ことばが「肉体」となって走っていく。
 これはいいなあ。
 どこへ、という意識がない。「頭」がない。ただ走れるから走る。そういう「肉体」がいい。
 後半は、引用しないが、たとえば一方に「目測はいつでも少し誤る」という抒情があり、他方に「葉を揺らす風は壊れる」という非情がある。また一方に「脳内分泌物」という細いリズムがあり、他方に「掌をはらむ」というひくくて太いリズムがある。どちらかにことばが収斂していくのではなく、逆に、加速することで、無意識に逸脱していく。
 でも、最後の最後は、

走れ走れ走れ
鳥の羽ばたきに叩かれる
脳内に光を見出すこと

 という、なんだ、やっぱり「頭」がでてきてしまうのか、という「オチ」までついていて、笑ってしまえるところが、とてもいい。



 新延拳「遠い祈り」と比較すると、森川の詩が、そのことばが「肉体」であることがわかりやすくなるかもしれない。否定的(?)参照のための例として紹介してしまうことになるので、新延には少し申し訳ない気もするのだが……。
 作品の1連目。

列車から通りすぎる時見るこの町の建物はみな裏側
路地が夕日に染まる頃
レース越しに嬰児が眠っているのが見えた
母親は頬杖をつき煙のようによりそって

 1行目の「裏側」ということばの、はっとするような新しさ。けれども、そのことばが2行目の「路地が夕日に染まる頃」に乗っ取られてしまうと、もう、そこから先は「頭」の世界である。「レース」「嬰児」「母親」。ことばが動いて行ける場はもう決定してしまっている。

遠い日にけった石ころが
いま足元に落ちてきた

 郷愁--という「頭」がつくりあげた感性の記憶。新延は、彼自身の感性であり、彼自身の記憶だというだろう。確かにそうなのだろうけれど、それが新延の感性であり、記憶だとわかるのは新延だけである。古今集からはじまり、いくつもの時代をへて、磨き上げてきたことばの選択方式。「頭」のなかに積み重なっている「文学」。そこから少しも逸脱していっていない。
 「頭」から逸脱する必要はない--新延はいうかもしれないけれど。



山越
森川 雅美
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