『田村隆一全詩集』を読む(26) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「他人」の導入--というと変な言い方になるが、「他人」と出会うとは、過去-現在-未来とつながっている「私」の時間を洗い直すことなのだと思う。「他人」もまた過去-現在-未来という時間を生きている。「いま」という時間に2人が出会ったとき、そしてそこになんらかの会話をしたとき、ふいに「他人」の「過去」が「いま」に呼び出されて来る。それは田村の「いま」とはつながらない。「他人」の「過去」と田村の「いま」を結びつけ、「いま」をという時間を動かすためには、田村の「過去」そのものを「いま」へ呼び出さなければならない。生き直さなければならない。この生き直しが、時間を洗い直すことなのだ。
 他人が登場すると、田村のことばはとてもいきいきする。それは、そこでは、そういう生き直し、時間の洗い直しが行われているからだ。「詩は『完成』の放棄だ」(「水」)などという美しいけれど抽象的なことばは消え、具体的なものだけが書かれる。そのなかで「肉体」が動いていく。

 「手紙」という作品。

Y君から手紙がきた。
ケネディの切手が貼ってある。
アメリカ中西部の大学町。
初雪があったという。
中華料理店『バンブー・イン』は店を閉じた。
テネシー・ウィリアムズが学生のとき、
ビールばかり飲んでいた酒場もなくなって、
『ドナリー』だけは一九三四年以来健在だそうだ。
田村さんが住んでいたアパートのあたりまで散歩しました、とある。

ぼくが住んでいたアパート。
それはもうぼくの瞼のなかにしかない。
いくら雪のふる夜道を歩いていっても、
Y君にはたどりつけるはずがないのだ。

 前半は、Y君からの手紙を要約引用している。それだけである。しかし、そこには「出会い」がある。Y君が町の描写をするとき、その描写はY君にとって「いま」なのだが、田村にとっては「過去」である。この詩では、「田村の過去」が他人のことばによって「いま」にひっぱりだされる。それは田村の「過去」を洗い直す。「バンブー・イン」や「ドナリー」という固有名詞が「過去」と「いま」をつなぐ。そのとき、見えて来るのは「過去」そのものではなく、「いま」と「過去」とのあいだにある「時間」だ。他人に会うとは、出会うことではじめて見えて来る「時間」に会うことなのだ。
 この作品では、その「時間」はすこし感傷的に描かれている。「たどりつけない」ものとして書かれている。そんなふうに閉じられてはいるのだけれど、田村だけのなかで完結していた「時間」、抽象的なことばで書かれた濃密な「時間」に比較すると、ここでは、「時間」そのものが他者に対して開かれている。
 この作風の変化は、重要なことだと思う。

 「絵はがき」は、田村が誰かに「絵はがき」をみせながらアメリカ(ニューヨーク)について説明している形でことばが動いていく。その誰かはここでは明らかにされていないが、他者がくっきりと存在し、その他者にむかってことばが動くので、ことばがとてもわかりやすい。

こいつはタイムズ・スクエアです
老人がぼんやり坐っている
そう 人間があまりいませんね
図書館もガラ空きだったし エロ本屋にも客はいない

 図書館とエロ本屋の対比が人間をくっきり浮かび上がらせる。図書館にとってエロ本屋は「他人」のようなものである。そこに流れている時間はまったく別の時間である。そして、人間はその両方の時間を知っていて、それを結ぶ「あいだ」の「時間」を生きている。図書館だけの時間、エロ本屋だけの時間だけではなく、そのあいだを往復する時間を生きている。図書館の時間をエロ本屋の時間で洗い、エロ本屋の時間を図書館の時間で洗い直すように。
 そういう「時間の洗い直し」を田村は『新年の手紙』でやりはじめたのだと思う。
 それはもしかすると、『緑の思想』のころからはじまっているかもしれない。『緑の思想』のときは、その「他人」は人間ではなく、「自然」あるいは、「日本的な感性」だったかもしれない。伝統的な自然観--それも「他人の時間」として、田村自身が自分のなかに取り込んだものかもしれない。自分自身のことばを洗い直そうとして、そういう作品を書いたのかもしれない。





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