瞬時に溶けよ
人類の眼
眼とは何だろうか。田村にとって、眼とは何だろうか。田村は眼を「悪い比喩」をつくりだすもの、うみだすもの、と感じているのかもしれない。
蒼白い商業と菫色の重工業は
朔太郎の抒情詩で終ってしまったが
戦争から帰ってきた青年たちは
砂漠と氷河の詩を歌ったっけ
むろん かれらだって
砂漠で戦ったこともなければ
氷河を見てきたわけでもない
仲間が死んだのは南の海だ
砂漠も氷河も悪い比喩だ
比喩は死んで死比喩になったけれど
「死んだ男」はいまだに死なぬ
古いアルバムの鳶色の夢のなかで
夭折の権利を笑っているのさ
道造や中也そっくりの
瞬時に溶けよ
人類の眼
「氷河を見てきたわけでもない」の「見てきた」が「眼」に呼応している。そして、その「見てきた」ものが「比喩」である。なにかしら、「眼」で「見る」こと、そして「見る」ことから始まる思考の動きを、田村は拒絶しようとしている。
この詩には、その拒絶がくっきりとあらわれているわけではない。だからこそ、そこには、なにかあいまいなままの、思想になりきれていな思想がうごめいている感じがする。書けなかったことがらが、最後の2行に必死になって結晶しているという感じがする。
「蒼白い」「菫色」「鳶色」。この詩には、そういう「色」が出て来る。「色」は眼でとらえるものである。それは「表面」ということかもしれない。そういうものに触れてしまう「眼」、そこからなにかを感じてしまう「眼」--そいう「眼」そのものを田村は拒絶しようとしているのかもしれない。
*
「眼」では見ないもの--「眼」以外で見るもの。「夢」。「飛ぶ」という作品。
きみが眼ざめるとき
どんな夢を見る?
この作品は、いきなり矛盾から始まっている。目覚めるとは、ある意味では夢を見ないことである。夢は眠りのなかで見る。けれど、田村はここでは逆に問いかけている。
「肉眼」で見る夢があるのだ。「肉眼」でしか見えない「夢」があるのだ。それが詩である。そして、そうであるなら、その「肉眼」が見るものは、「蒼白い」「菫色」「鳶色」というような色--なにかの表面にあると考えられているものであるはずだ。
だが、それは何?
きみが眼ざめたとき
きみのなかではじめて眠りにつくものが
夢にみるだけ
この逆説に満ちたことば。
「きみのなかで」の「なかで」が重要なのかもしれない。「肉眼」でなにかをみるとき、逆になにかが何も見なくなる。何もみずに「眠りにつく」。
具体的には書かず、ただそういう「運動」があるということだけを、田村は書いている。それをまだ、書くことができずにいる。
--不完全な詩というと変だけれど、代表作とはいえないような(「飛ぶ」にしろ、「悪い比喩」にしろ、私は田村の代表作とは考えていない。感じていない)作品には、なにか書こうとして書けないものの「芽」のようなものが動いている。詩人が留保したなにかが、そこにはある。その留保したもの、そのことばの動きを、きちんと掬いだして動かせれば、きっと詩人の本質がわかると思うのだが……。
眠っているとき、肉眼を閉ざし、肉体の内部の眼が動いているとき、なにかが見え、逆に肉眼で見始めたとき、なにかが見えなくなる。
どうすればいいのか。
「秋の山」のなかに次の行がある。
この透明度には危険なレトリックがある
遠くのものが近くになる時
近くのものは見えなくなる
「秋の山」という作品は「遠くのものが近くになる」という行で書き出されている。秋になると「遠くのものが近くになる」。これは正確には、「遠くにあるものがまるで近くにあるかのように見える」ということを指している。それはもちろん錯覚である。現実には、遠近そのものが逆転するわけではない。けれども、私たちはそういう言い方をする。この「言い方」を「レトリック」と田村はここでは定義している。
この世界にあるのは、そういう「レトリック」--現実をとらえるとらえ方、そしてそのとらえたものを言い表す方法だけなのである。その方法のなかに「比喩」もある。ものごとをどうとらえるか--というとき、大切なのは「肉眼」の正確さではない。「肉眼」の力に頼らず、肉眼を否定していく力だろう。
田村は、俳句的世界を描きながら、(それに通じる詩を書きながら)、そのときに動く「肉眼」を拒絶し、「肉眼」ではない力で、自然を--日本人が親しんでいる風景を、「分解」しようとしているように感じられる。
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