『田村隆一全詩集』を読む(17) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 『緑の思想』という詩集には驚く。それまでの田村の詩とは印象がかなり違う。過激さが消える。ことばが、なにがなんでも、ことばの扉を押し開いて、ことばの向うへゆくという感じがしない。
 「水」という作品。とても短い。この短さにも驚かされる。その全行。

どんな死も中断にすぎない
詩は「完成」の放棄だ

神奈川県大山(おおやま)のふもとで
水を飲んだら

匂いがあって味があって
音まで聞こえる

詩は本質的に定型なのだ
どんな人生にも頭韻と脚韻がある

 「意味」の拒絶ではなく、「意味」との対峙がある。「意味」と対峙しながら、「意味」に異議を申し立てている。そういう印象がある。書き出しの2行には、そういう印象がある。「意味」以外のものを探している、という印象がある。
 「中断」と「「完成」の放棄」は、私には、相通じるものがあると思う。そして、その相通じるものを通るとき、「死」と「詩」が韻を踏む。そのおとは「し」という一音なので、それが頭韻なのか、脚韻なのかわからない。たぶん、その両方なのだろう。そして、韻を踏みながら、それは融合する。
 これまでのことばが、矛盾し、対立し、互いを破壊し、混沌のなかで融合したのに対し、この作品では、ことばは「韻」のなかで融合する。「死」と「詩」は同じものではないが、矛盾はしない。互いを破壊もしない。互いに接近し、その出会うことで、融合する。
 別個の存在(ことば)が出会い、そこから「融合」がはじまり、まったく別なものになる(別な世界へ移行する)ということでは、これまでの作品と同じだが、その融合の仕方がおだやかといえはいいのか、日本語の伝統に通じるといえばいいのか、いままでとは違うのである。
 その違いのために、私は、とてもとまどう。

 とまどいながらも、私は、この作品が好きだ。特に、

水を飲んだら

匂いがあって味があって
音まで聞こえる

 という3行が好きだ。
 「水」に匂いがある、味があるというのは、味覚のことだから、だれでも感じることかもしれない。ところが「音まで聞こえる」というのは、どうだろう。水を飲む--水は口のなかに入り、舌に触れ、喉を通る。そのとき、口とつながっている鼻腔にも刺激があるから、においだってする。だが、どうして、音が聞こえる?
 --私の理性(?)は、そんな疑問にぶつかる。
 しかし、私の感性(?)は、その疑問を拒絶して、その「音」--具体的には書かれていない「音」を聞き取ってしまい、ああ、いいなあ、とため息をもらす。水源の、風。木々を揺らす風。風にそよぐ木の葉。木の葉から落ちる一滴の水の音。落ち葉をくぐり、大地にもぐりこむ水の、しずかな流れ。そういう音を一瞬のうちに聞いてしまう。そして、そういうものを聞くだけではなく、見てしまう。
 耳で?
 そうではなくて、口で、舌で聞いてしまう。見てしまう。
 私たちの感覚(五感)はどこかでつながっている。どこかに「共通」の場をもっている。そこを通って、ほんらい、聴覚や視覚の働きをしないはずの、口や舌や喉が、音を聞き、色を見てしまう。
 そんな融合--感覚の融合する瞬間がある。それが「詩」である。

 そのとき、つまり、音を聞き、色を見ているとき、口や舌や喉の、ほんらいの機能は死んでいる。ほんらいの機能は働くことを中断している。ほんらいの機能は「感性」すること、機能を全うすることを放棄している。
 こういう混乱というか、こんとんというか、不完全な(?)状態、複数の感覚が融合して存在する瞬間を、田村は「定型」と呼んでいるように思える。そういう状態を「定型」と呼ぶことで肯定しているのだ。
 なにもかもがまじりあった瞬間--それが「いのち」の「定型」である。この「いのち」の「定型」を私は「肉体」と呼びたい。
 田村は「肉体」と出会っているのだ。

      


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