『田村隆一全詩集』を読む(14) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

                       (「言葉のない世界」のつづき。)
 「観察」と「批評」を田村は言い換える。「1」において「ことばのない世界は真昼の球体だ」を言い換えたように。

  5

鳥の目は邪悪そのもの
彼は観察し批評しない
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は嚥下し批評しない

 「観察」てる鳥。その「観察」を田村は「邪悪」ということばで「肯定」している。「邪悪」というこきばは一般的に否定的につかわれる。「邪悪」なものは市民生活のなかでは否定される。しかし、「観察」を肯定しているのだから、「邪悪」も肯定していることになる。
 「現代詩」が難解といわれる要素がここにある。「現代詩」ではふつうの市民生活でつかわれるとおりのとこばの定義でことばをつかうわけではない。流通していることばの定義からことばを解放し、別の要素、だれも見いだしていない定義(詩人独自の定義)でことばを動かす。自分自身の定義をつくりだしてかまわない、どんな定義をしてもいい、というのが現代詩のルールなのである。
 肯定される「邪悪」。そして、その「邪悪」を補足するのにつかわれているもの。「目」と「舌」。肉体である。「観察」するのは「目」、「嚥下」するのは「舌」。それは、ことばを操作しない。(舌は声を操作するけれど、ことばそのものを動かすわけではない。)「肉体」は、「言葉のない世界」なのである。それは「邪悪」である。なぜか。「頭」を裏切るからである。「頭」の制御を振り切って、「いのち」におぼれるからである。快楽に忠実な本能だからである。
 田村は「邪悪」を補足する。どんな文学作品も、前に書いたことを補足しながら運動を進める。というよりも、そうやって運動することでしか前へ進めない。補足は、実は、書くことで発見する新しいいのちの姿なのである。補足は、それまでのことばを剥がしていく方法なのである。
 矛盾した言い方になるが、補足は、何かを継ぎ足すのではない。むしろ、覆い隠しているものをはぎ取るのである。ことばを追加することで、前のことばをはぎとり、その内部へ入ってく方法が文学における補足である。
 書きつづけるということは、次々に、最初の行では書けなかったことの内部、書こうとしている「活火山」の内部へ内部へと入っていくことなのである。

  6

するどく裂けたホシガラスの舌を見よ
異神の槍のようなアカゲラの舌を見よ
彫刻ナイフのようなヤマシギの舌を見よ
しなやかな凶器 トラツグミの舌を見よ

彼は観察し批評しない
彼は嚥下し批評しない

 「邪悪」とは「異神の槍」である。「異なる」ということ、「槍」という武器であることが、ここでは重要である。
 「邪悪」とは「しなやかな凶器」である。「しなやか」と「凶器」という、いわば反対のものの結びつきが、ここでは重要である。
 異質なものが結びつくとき、それはそれがほんらいのもの(正しい?結びつきのもの)を超越したパワーをもつ。
 「邪悪」とは「悪い」という価値判断をあらわすためにつかわれているのではなく、「超越」という意志をあらわすためにつかわれているのである。

 「邪悪」を田村は、さらに言い換えている。
 
  9

死と生殖の道は
小動物と昆虫の道
喊声をあげてとび去る蜜蜂の群れ
待ちぶせている千の針 万の針
批評も反批評も
意味の意味も
空虚な建設も卑小な希望もない道
暗喩も象徴も想像力もまつたく無用の道
あるものは破壊と繁殖だ
あるものは再創造と断片だ
あるものは破片と断片のなかの断片だ
あるものは破片と破片のなかの破片だ
あるものは巨大な地模様のなかの地模様だ

 「批評も反批評も」、あらゆるものが「ない」。「ある」ものは「破壊と繁殖」といったいわば反対にあるものの同居、あるきは「巨大な地模様のなかの地模様」といった区別のつかないもの。そういう状況をカオス、混沌と呼ぶことができる。
 「邪悪」とは「混沌」のことなのである。そして、その「混沌」のなかでは、破壊と繁殖が同時に行われている。死と生が同居している。矛盾しているものが同居しているから混沌というのだが……

  10

彼の目と舌は邪悪そのものだが彼は邪悪ではない

 これは、とても重要な行だ。「肉体」は邪悪である。けれど、彼の存在そのものは邪悪ではない。部分と全体の関係がここにある。
 詩の1行1行は、邪悪で混沌に満ちている。けれど詩そのものは邪悪ではない。
 ことばの1行1行は矛盾している。けれども詩そのもの、詩の全体は矛盾していない。
 あらゆることばは先行することばを破壊する。けれども、ことばのいのちそのものは破壊しない。
 むしろ、破壊することで、ことばを甦らせるのだ。「言葉のない世界」を新しく誕生させるのだ。新しいいのちの誕生へ向けて、ことばを破壊しつづけるのだ。「流通している言語」を。

 この詩の終わり方、最後の3行は、けれど、ちょっとナイーブである。そういうものが同居しているというのが田村の魅力だろう。

  13

おれは小屋にはかえらない
ウィスキーを水でわるように
言葉を意味でわるわけにはいかない

 私の感想は、いつでも、詩を割りすぎているかもしれない。反省。



ワインレッドの夏至―田村隆一詩集
田村 隆一
集英社

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