『田村隆一全詩集』を読む(12) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 「言葉なんかおぼえるんじやなかつた」ではじまる「帰途」は反語に満ちた作品だ。

言葉なんかおぼえるんじやなかつた
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きていたら
どんなによかつたか

 「言葉のない世界」というより「言葉が言葉になる前の世界」、「意味が意味にならない世界」ではなく「意味が意味になる前の世界」--田村が書きたいのはそういう世界だ。この欲望は、もちろん不可能だ。ことばにした瞬間「言葉が言葉になる前の世界」は消えてしまう。意味はその瞬間に誕生し、「意味が意味になる前の世界」欲望は実現した瞬間、失望にかわる。田村の欲望は矛盾でできているのだ。
「言葉なんかおぼえるんじやなかつた」という行さえ、ことばなしには表現できない。

 だが、それが矛盾だからこそ、刺激的である。矛盾、反語のなかにだけ、一瞬、すばやく駆け抜けていくいのちがある。敗北する瞬間に、そのいのちの輝きが見える。切実さがくっきりと見える。

あなたか美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血をながしたところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛
ぼくたちの世界にもしことばがなかつたら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがある

言葉なんかおぼえるんじやなかつた
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる

 2連目は不思議だ。「そいつ」は何を指すのだろう。「美しい言葉」「静かな意味」だろうか。それとも「復讐」「血」を流すこと、流血だろうか。また、「美しい言葉」「意味」は、だれが発したものだろうか。「言葉」も「意味」も田村が発したものである。それによって「あなた」が傷ついても、それは田村とは関係ない、田村の責任ではなく「言葉」「意味」のせいである。田村は、そう言いたい。なぜなら、ほんとうに「あなた」に知ってほしいのは、「言葉」にできなかったことば、「ことば以前のことば」、つまり、まだだれも言っていない田村だけのことばなのだから。
 これも、まったく不可能なことである。だれも言ったことのないことばなら、それは「あなた」にはわからない。ことばは人に共有されてはじめてことばになる。そういう歴史があってことばが動いている。「美しい言葉」、その「美しい」という概念さえ、歴史を持っている。「ことば以前ことば」を「ことば」にすることはできない。--そういう矛盾、不可能性と向き合いながら、田村はことばを発する。
 ことばではなく、肉眼で、世界を確かめたい。肉眼になりたい。「ぼくはただそれを眺めて立ち去りたい」という3連目のことばは、そういう欲望をあらわしている。しかし、その欲望さえも、ことばをとおしてしか表現できない。
 矛盾。絶対的な矛盾。
 だが、この絶対的な矛盾のなかで、ひとは出会い、和解する。

ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる

 田村の矛盾は止揚→発展へとつながるものではない。逆に、その場に立ち止まるためのものである。立ち止まって、その場を矛盾を解体し、融合する。他者と一体になる。一体になるために、矛盾以前の、まだ何も生まれていない混沌とした世界へ帰っていく。そういう世界である。5連目の「立ちどまる」「帰つてくる」は、そういうことと結びついている。

 ひとはときどき「何も言いたくない」と言うときがある。そして、実際に何も言わないときがある。けれども、その「何も言わない」に触れるとき、「言わない」ことが鮮明に伝わってくるときがある。「言わないから」のに理解することがある。理解できる何かがある。
 --そういう矛盾と対極の世界。
 ことばをひたすら否定する。そのとき、ことばへの渇望がほんものになる。本能のようなものになる。そして動きはじめる。

 ことばは「理性」を破壊し、「本能」へ立ち返るためにこそ、動かなければならない。激しい運動をしなければならない。過激な詩にならなければならない。矛盾を正確に書き留めなければならない。


 


秘密機関 (クリスティー文庫)
アガサ・クリスティー
早川書房

このアイテムの詳細を見る