1990年に京都へ行ったときのことを書いている。行きたくて行ったのではなく、航空券をもらったから関西へ出かけ、京都へ行った。でも、とても疲れている。「こんなことなら京都まで来るにはおよばない/多摩川でも荒川でもよかった」と思いながら、桂川の土手に横たわって休んでいる。
その浜田が、河原近くにいる父と少年に気が付く。二人とも、浜田には背を向けて座っている。少年は時刻表を読み上げている。そのあとが、とてもおもしろい。
時刻表を読み上げる少年の声
子どもらしく聡明な、伸びのあるアルト
でも父親はそれにひとことも応えない
背中を丸め、おし黙ったまま
たぶん亀のような眼をして、じっと川を見ている
それでも少年は、まだ見ぬ真珠を数えるように
駅名と時刻を飽きもせずくり返す
「~駅×時×分、~駅×時×分、ほんで急行が×時×ふん」
--なあぼく、お父さんは疲れているんだよ
しばらくそっとしといてあげなよ
口には出さず声をかけた、
そして気づいた
駅名と時刻はつまり、
「父ちゃんもうええか?」
言葉のないその応えは、
「ああもうちょっとや」
浜田は自分が疲れているので、「お父さん」も疲れているだろうと想像し、少年にそう言おうとする。こころの中で言ってみる。そして、その瞬間、少年のしていることがわかった。父親のしていることが突然わかった。
そのわかったことを、浜田は書かずに、読者の想像にまかせている。
さて、何をしていた? 時間潰し?
私はふいに、父親が野糞をしていると「気づいた」。私の想像が正しいかどうかはわからない。それ以外に何も考えられない。
なぜ、そんなふうに想像したか。
浜田が、声に出さずに言ったことばが、そう想像させた。「お父さんは疲れているんだよ/しばらくそっとしといてあげなよ」は父親の姿勢に反応して浜田の体のなかから出てきたことばだ。人間は不思議なことに、他人が何も言わなくても、ある姿勢をとっていると、そのひとのことがわかる。腹を抱えてうずくまっていれば、腹が痛いのだと想像してしまう。浜田はいま、疲れて土手に座り込んでいる。それで、その自分の姿に似た父親の姿(姿勢)を見たとき、父親は疲れているんだと思い込んだ。ごく自然な反応である。人間は他人の姿勢から他人の肉体の状態を知ってしまうが、それはあくまで自分の知っている肉体の状態である。知らない状態については、想像のしようがない。反応のしようがない。
そして、そう言ってしまったあと、浜田は、それが実は自分の状態だと気づき、同時に、父親は違う状態かもしれないとも気が付いたのだ。自分と他人は違う、と気が付いたのだ。また同時に、そうやって座り込んでいる姿勢の、もう一つの意味をも知ったのだ。
父親は自分のしていることを土手を通りすぎる人は知られたくなかった。だから、少年をカムフラージュに使っていた。二人で何か、意味のあることをしているふりをさせていたのだ。何をカムフラージュしようとしたのか。この場合、私は野糞しか考えられない。
このナンセンスが、浜田を解放する。人間はけっきょく同じことをする。働いて、疲れて、食べて、糞をする。それが生きることなのだ。
最終連。
どのくらい経っただろう、
ふいに少年がしゃべるのをやめた
やや間があって、それからさえずるように言った、
「ほな行こか」
父親も黙って立ち上がった
二人が去って、
川べりからの風がすこし強くなった
あたりは暗くなりかけていた
僕はおもむろに立ち上がり、尻の埃を払った
新幹線のチケットを取り出し、時間を見た
そしてひとりごちてみる、「ほな行こか」
ああ、行こうか
この対話がいい。独り言が美しい。自分を受け入れている。人間はけっきょく同じことをする。働いて、疲れて、食べて、糞をする。そういうことを受けれて、人間になるのだ。
![]() | ある街の観察 浜田 優 思潮社 このアイテムの詳細を見る |