『田村隆一全詩集』を読む(5) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「声」は書こうとすることが定まっていない。何が書けるかを探している。そのときの、ことばの揺らぎが過激である。

思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ 全身で感じることのできるせつない空間へ 感じるのだ 身をもつて思想を感じることなのだ

 ここでは抽象的なことばがせめぎあっている。「思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ」の「それは」は何だろうか。
 「時間を拒絶」すること--と考えるのがふつうの文法かもしれないが、そう考えるとあとが矛盾する。思考を拒絶することは時間を所有すること、と考えると、次に「時間から脱出せよ」が論理的に矛盾する。脱出する必要があるなら、なぜ、その時間を所有しなければならないのか。
 「それは」は「思考」か。思考を拒絶せよ。なぜなら、思考は時間を所有することだ。時間は所有せず、時間から脱出せよ。
 こう考えると、なんとなく、論理的には可能なことのように思える。
 時間から脱出して、どこへ行くのか。全身で感じることのできるせつない空間へ、行く。だが、このとき、目的は「空間」ではない。「感じるのだ 身をもつて思想を感じるのことなのだ」。目的は「感じる」ことである。だが、何を? 「思想」を感じる。
 そこまでたどりついて、私は、立ち止まってしまう。
 「思考」を拒絶して、「思想」を感じる。「思考」と「思想」はどこが違う? 私にすぐには答えることができない。私自身のことばのつかい方を吟味してみても、その区別はどこかであいまいになる。田村の「思考」と「思想」の使い分けは、もちろん、いまの段階ではわからない。
 何がいいたいのだろうか。
 たぶん、「思考」の対極にあるのは「感じる」ということばなのだろう。「考える」(思考する)のではなく、感じる。しかも「身をもつて」。「考える」は「頭」である。ここでは「頭」に対して「身」が向き合っている。
 「考える頭」と「感じる身」--これが、この詩における「対」である。そして、同時に「思考」と「思想」がやはり「対」になっている。
 「頭」でたどりつく、つかみとるのが「思考」、「身」でたどりつくのが「思想」。そして、田村は、その「身」でたどりつく「思想」、「身をもつて感じる」ことを重視している。
 その「思想」を重視するなら、私が、ここで解読したような試みは、もっともいけないことである。「頭」で「論理」を追ってはいけない。それでは「思想」にたどりつけない。
 では、どうすべきなのか。
 ことばを「頭」ではなく、肉眼で追いかけ、喉と舌で追いかけ、耳で追いかける。つまり「音楽」で追いかける。そのとき「身」(肉体)が感じる何か--それが「思想」だと感じる、ということをすべきなのである。
 ここでは考えてはいけない。音をただ味わうのだ。

 詩の書き出しに戻る。

 指が垂れはじめる ここに発掘された灰色の音階に

 「音」は最初からテーマだった。「灰色の音階」という不思議な表現。耳で聴く音階ではなく、眼で聴く音階。眼と耳、視覚と聴覚の融合。「身をもつて」とは感覚の融合をもってというのに等しい。
 それはたしかに「考える」ことではない。ただ「身」をまかせることである。「身」を何かに(音楽に)まかせ、そのとき起きる感覚の融合を全身にひろげる。そのとき、全身(肉体)という「空間」が「思想」になるのだ。

思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ 全身で感じることのできるせつない空間へ 感じるのだ 身をもつて思想を感じることなのだ

 このことばのなかで、田村は何も考えていない。多々音に誘われるままに、音の自律性にまかせて、その動きを身体で追っているのだ。旋律。リズム。ことばはいつでも、そういうものだけで動いていく。「拒絶」→「所有」→「脱出」。この過激な漢語(熟語)のスピード。そのスピードを「頭」ではなく、「身体」で感じるとき、「音楽」が「思想」になる。それは「意味」ではなく、意味以前の感覚の融合である。




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田村 隆一
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