『田村隆一全詩集』を読む(2) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「幻を見る人」は4篇から構成されている。この詩にも矛盾がある。4連目。

 (これまでに
  われわれの眼で見てきたものは
  いつも終りからはじまつた)
 (われわれが生れた時は
  とつくにわれわれは死んでいた
  われわれが叫び声を聴く時は
  もう沈黙があるばかり)

 「終りからはじまつた」「生れた時は/とつくにわれわれは死んでいた」。そして、矛盾であるにもかかわらず、なぜか、そのことばの運動が「間違っている」という印象呼び起こさない。たぶん、私たちは現実が矛盾で構成されていることをどこかで感じているのからかもしれない。田村は、そういう私たちがぼんやりと感じているものの「内部」といえばいいのか、その「構造」をことばでとらえ直そうとしている。そして、そういう「内部」あるいは「構造」というものをくっきりと見るために、わざと矛盾を導入している。矛盾した存在は、そのふたつの存在の「あいだ」に「広がり」をつくりだすからである。
 もちろん矛盾するものがぴったり密着していてもいい。矛盾するものが密着しているということは、もちろん現実にはあるだろう。
 けれど、その密着を、田村は、強引に(?)切り離し、「あいだ」をつくり、その「あいだ」(広がり)のなかでことばを動かす。
 「あいだ」の存在によって、現実を突き動かすと言い換えることもできると思う。
 この「あいだ」、「ひろがり」の意識は、この詩に特徴的にあらわれている。引用しなかった部分に、おもしろい行があるのだ。
 1連目「四時半」、3連目「二時」、5連目「一時半」、7連目「十二時」。
 詩は、ことばの運動に逆らって、「過去」へと進む。田村は「時間」を「過去」へと動かしている。自然の(日常の)時間は、もちろん、そういうふうには動かない。この意識的な時間の操作は、日常感覚と矛盾している。
 そういう矛盾した時間の流れ(逆方向の流れ)をことばの運動に持ち込むことで、田村は「あいだ」「広がり」を強調している。
 時間が自然に進むとき、私たちは時間というものをあまり意識しない。知らない内に別の時間にたどりついている。(目的があって、ある時間をめざして何かをしている場合は別である。)ところが、時間を過去へさかのぼらせるときは、その流れを明確に意識しないといけない。「わざと」、時間を逆にとらえ直さないといけない。
 意識的に「あいだ」「広がり」をつくりだし、その「広がり」のなかで、田村は矛盾を見つめようとしている。いのちを「広がり」のなかで、意識的に追跡しようとしている。


腐敗性物質 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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