『田村隆一全詩集』を読む(1) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 田村隆一を読んでみようと思った。断片的に読んだことはあるが継続的に読んだことかなかったからだ。テキストは『田村隆一全詩集』(思潮社、2000年08月26日発行)。どんな田村隆一に出会えるのか、見当がつかないが、書きはじめることにする。

 「幻を見る人」。書き出しの3連が緊張感に満ちている。

空から小鳥が堕ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

窓から叫びが聴えてくる
誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか堕ちてこない
窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴えてこない

 この詩には矛盾がある。「ある」と断定されているものが矛盾している。
 小鳥のためには「野」と「空」がある。それは同時には存在し得ない。小鳥が死ぬとき野があり、小鳥が生きるとき空がある。生から死への、いのちの運動が野と空を隔て、またつなぐ。
 叫びにとっての「窓」と「世界」も同じである。
 いきるということ、いのちというものは、そういう矛盾をつなぐ運動そのものを指しているのだろう。
 その運動を、ことばで追跡したものが田村にとっての詩ということになるのかもしれない。

 この詩には矛盾がある--矛盾が詩である。「ある」と同じように強い断定で「ない」ということばが使われている。「堕ちてこない」「聴えてこない」の「ない」である。
 ことばは「ある」(生)から「ない」(死)へと動く。そのふたつの対立する何かを結ぶ力が、田村の詩なのだと思う。

 この詩の4連目も魅力的だ。

どうしてそうなのかわたしには分らない
ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

 ここにも「分からない」という否定と、「感じる」という肯定が向き合う。
 田村にとっては、相対立するものが向き合うこと、矛盾することの「あいだ」を行き来する運動が大切なのだ。そういう運動を活発化させるために、相対立するもの、矛盾を選び取るのかもしれない。


 

田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

このアイテムの詳細を見る