梅田智江『梅田智江詩集』(4) | 詩はどこにあるか

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梅田智江『梅田智江詩集』(4)(右文書院、2008年08月15日発行)

 ひとは「私」でありながら、「私」を超越して、何かに「なる」。いや、どんなときでも「私」は「私」をひきずったまま、「私」を超越したものに「なる」。何になっても、「私」は「私」をひきずっている。だからこそ「なる」という意識が生まれる。もし、完全に「私」というものが消えてしまったら、「私」が何かに「なる」(なった)ということがほんとうかどうかわからない。
 『変容記』の「樹の男」。

 ああ、その時、どんな男よりも、男臭く、精液に満ちて、樹が、樹が、わたしを誘ったのだ。なまえは知らない。だが、細い腕を幹に巻き付け、黒い樹を抱いたのはわたしだった。樹の内部で、じょじょに、高まっていく音を聴き、やがて、声を挙げつづけたのは、わたしだった。梢の先から、陽はさんさんと降り、森は燃えるように透き通っていた。

 この世であって、この世でない場所。恐怖と悦楽に、貫かれて、犯してしまった。わたしは果てしなく少女になり、果てしなく老女になった気がする。

 ここに書かれている矛盾。「この世であって、この世でない場所」「わたしは果てしなく少女になり、果てしなく老女になった」。この世なのか、この世ではないのか。少女なのか、老女なのか。矛盾しているから、それは真実なのだ。
 矛盾とは相対立するものが同時に存在することである。そして、この矛盾の科学で一番大切なのは、「相対立するもの」「対立」ではなく、「同時」なのだ。「同時」のなかに、すべての秘密がある。さらにいえば「時」(時間)のなかに、すべての秘密がある。
 矛盾が矛盾でなくなる--矛盾を矛盾でなくすためには簡単な方法がある。「弁証法」の「止揚」というようなものではない。「和解」のような手続きでもない。もっと簡単な方法がある。「時」(時間)を取っ払ってしまえば、矛盾は存在しないのである。できなくなるのである。
 「時」(時間)を取り払う、消し去ることは不可能か。そんなことはない。とても簡単である。私たちはいつでも「時」(時間)を消してしまっている。忘れる、という方法で。夢中になる。時間を忘れる。「時」(時間)がなければ、そこには矛盾は存在しない。
 この詩で梅田はセックスを描いているのだが、セックスの忘我--エクスタシーの瞬間、「わたし」は「わたし」でありながら「わたし」を逸脱している。そこには「時間」が存在しない。だから、それをあとから振り返ると、つまり「時間」のなかに引き戻してみると、「わたしは果てしなく少女になり、果てしなく老女になった」ということが起きるのである。思い出すとき、つまりあることがらを「時間」の枠のなかにいれて順序立てる、秩序立てるとき、その秩序・順序と意識はかならずしも一致しない。10年前のことも、1秒前のことも、意識のなかではすぐ隣にある。時計ではかったときのような「隔たり」がない。だから「少女」と「老女」がぴったり重なり合っていたとしても不思議ではないのである。
 
 「時間」が消える。そして、そこで矛盾したことがぴったり重なり合う。そういうことを別の表現でいえば、どうなるか。「短い髪の女」には、次の行が出てくる。電車で郊外を走り抜けたとき、ある部屋で男と女がセックスをしているのか見えた。

 誰も見なかった。覗き込む姿勢で私だけが見てしまった。闇に切り取られ浮かぶ男と女。
 だが、そんなことがありうのるであろうか。光芒のように垣間見た、あのぬれぬれとした窓のなかで、私は私の生を、一瞬のうちに生きてしまったのだ。

 「時間」が消えてしまう--それは「永遠」である。そして、「
同時」に「一瞬」である。「永遠」と「一瞬」は矛盾しているが、それも「時間」を計測の基準とするからである。「時間」を計測の基準からとりはらえば「永遠」と「一瞬」は人間の「肉体」のなかで一つになる。

 私から見ると、梅田智江は完全に「いのち」をつかみとっているように感じられる。しかし、梅田は、まだまだ不満だったようだ。
 「白い馬」。その全行。

 その白い馬は、夜毎、冷たい沼から脱け出してくる。
 私以外は誰も知らない。暗くて深い森の中の沼だ。
 水面から躍り出るとき、彼は一瞬苦しげに目を剥いていななく。青白い月光を、総身に浴びて。
 岸辺の樹々が、身慄してそれを瞶つめる。つりがね草も羊歯の葉も、細かく慄える。
   やがて森を駆けぬけ、
   緑野を疾走する白い馬。
あれは私の生。いのちそのもの。なのについに私のものにすることができない、私の生きなかったすべてだ。
   疾走する。汗が、筋肉が、
   真っ白い純潔なものが。
   疾走する。歓喜が、喪失が、
   真っ白い純潔なものが。
 荒々しいひずめの音をたてて、下草を踏みしだき。
 私の森のなか。私自身も踏み入ったことのない広大な原野を。その小道を。

 「誕生」の舞台は「山の奥」の「湖」だった。そこで「私」は太陽にさえなった。何にでも「なる」ことができた。しかし、常に何かに「なり」つづけても「なり」つづけてもなれないのだ。自分がほんとうになりたいものには。つまり、真実をつかみきれないという思いが残る。
 それが「白い馬」として描かれている。
 「山の奥」の「湖」から出発して、舞台は、いまは「暗い森」のなかの「沼」に「なって」いる。梅田が変わるとき、舞台もまた変容するのである。
 そして、いま、梅田は「私自身も踏み入ったことのない」ところへ「馬」が入っていくのを見ている。いつでも、「なれない」ものが残される。梅田は「私のものにすることができない」と書いているが、これは「なる」の対極にあるものだ。それがあるからこそ、そしてそれこそが「いのち」だからこそ、梅田は詩を書きつづけたのだ。
 詩は、梅田にとって「いのち」そのものになる唯一の方法だった。だから文字通りいのちがけだった。真剣に書いた。正直に書きつづけた。





外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房

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