リッツォス「手でくるんで(1972)」より(2)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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詩人の仕事    リッツォス(中井久夫訳)

廊下に傘、オーヴァーシューズ、鏡。
窓は鏡に映って、すこし静けさが高まる。
窓の中には向かいの病院の門が。
病院にはいら立つ長い行列。常連の供血者だ。
前のほうのはもう腕まくりをしてる。
奥の部屋では救急患者が五人死んだ。



 「詩人の仕事」とは何だろうか。「ことば」を発見することである。そしてことばを発見するということは「もの」を発見することとほとんど同じである。
 廊下に傘がある。オーヴァーシューズがある。鏡がある。その「事実」は誰が見てもかわらないだろう。しかし、それを「ことば」にするかどうかはひとによって違う。傘、オーヴァーシューズ、鏡を見ても、それをことばにしないひとがいる。また、ことばにするにしろ、その順序でことばにするかどうかはわからない。リッツォスは、その順序でことばを並べた。そのときに詩がはじまる。
 そうした「もの」の発見があって、はじめて、次の行、

窓は鏡に映って、すこし静けさが高まる。

という意識の内部へ侵入していくようなことばの動きが可能なのだ。「もの」を発見し、それを「ことば」にする。すると「ことば」を動かした意識は、「ことば」のもっている力を借りて、おのずと動きはじめる。その動きを忠実に、もういちど「ことば」そのものに還元できるのが「詩人」である。

 いったん動きだしたことばは、もう作者の手を離れる。(読者の手にゆだねられる、という意味ではない。それはもう少しあとのことだ。)
 ことば動く。どこまでも動く。「廊下」からはじまるリッツォスのことばは、最終行で思わぬ現実と向き合っている。こういう動きは、リッツォス自身が狙って動いたものではない。ことばが、ことば自身の力で動いていって、そこにたどりついたのである。こういう動きを、詩人は制御できない。そして、制御せずにことばに運動をまかせてしまうのが詩人である。

 そんなことを考えた。