リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(13)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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輪    リッツォス(中井久夫訳)

同じ声だ。今はもっとしゃがれてる。それがあえぎつつ彼に告げる。
「俺はここでやめて、ここからもう一度始める」。そう、いつも変わらぬ
繰り返しの輪。輪の中にあるのは
空の寝台。テーブルにランプだけが載って、
二本の手があてどなく
裏返し、表返すのを照らしている、
柔らかい黒皮の手袋のすっと長いのを二つ。



 この詩は、なんとなくエロチックな妄想をかきたてる。「声」が最初に出てくる。「しゃがれてる」「あえぎつつ」。そういう声が「「俺はここでやめて、ここからもう一度始める」と告げる。「彼に」。カヴァフィスの詩なら、完全に男色の世界になってしまうが、リッツォスの場合には、どうも違う。「彼」というのは、そこにいる誰かなのか。私には、なぜか「俺」が「俺自身」を「彼」と呼んでいるように感じられる。自分自身に「告げる」。--こういういことは、ふつうは「告げる」とは言わないかもしれない。特に「彼に、告げる」とは言わないかもしれない。
 けれど、なぜか、ここにふたりの(あるいはもっと多数の人間がいる)という感じがしない。孤独な感じがする。それは「空の寝台。テーブルにランプだけが載って、」という描写が、人気(ひとけ)を感じさせないからかもしれない。
 「俺」は「空の寝台」をみつめ、テーブルの脇で、テーブルの上のランプの明かりで手元を照らして、手袋を繰り返し繰り返し、裏返し、表に戻すという「無意味」なことをしている。何の気晴らしかわからない。けれど、そうせざるを得ない。「もう、やめよう」と思いながらも、繰り返してしまう。「ここでやめて」と言いながら、同じことを繰り返す。止めることのできない繰り返し--そこに、孤独がある。

 この詩は、その繰り返しの孤独ゆえの魅力とは別に不思議な味がある。前半は「声」、そして聴覚。そのあとランプ。視覚。そして、最後に手。触覚。感覚が次々に移っていく。その移り変わりのあり方、かわってしまってもとにもどらぬ旅の感覚が--また、孤独を、ひとりきりであることを、せつなく浮かび上がらせる。