渡辺正也「木」は、清潔なことばが響きあう。その共鳴が美しい。書き出し。
木が倒れたのは
骨が崩れたせいだ
音もなく
根元が透きとおるように砕けた
「木」は「骨」の一文字によって、「木」そのものを超越する。「人間」になる。そして、それは「死」を呼び込む。しかも「透きとおった」死を。
これが7連目と響きあう。
野に出しておけば
やがて無うなります
と 僧が言うので
ホトリ ホトリ と折って束ねた
これは単純に読めば、倒れた木を野ざらしにし、やがて土に還っていくのを自然にまかせるということ、少しでも早く土に還ることを願って、あるいは風にさらされてチリになって、どこかに消えてしまうことを願って、木の枝を折るということになる。しかし、そのせつめい(?)を僧がしたとなると、その「木」はまさに「骨」になる。そして、それは「木」の根幹ではなく、人間の「根幹」になる。
人間の骨も、「野に出しておけば/やがて無うなります」となるか。ならない。けれども、そうなることを願いたい気持ちがどこかにある。死んで「骨」が残されるのではなく、「無」そのものになってしまう気持ちがどこかにある。人間も、そんなふうに消えてしまうことはできないだろうか。
最後の2連。
あれは木ではなかった
境界のない
薄墨の夜と
こぼれ落ちるいのちの影
そこにうたたねするように
ぬばたまの闇の
濃くなっていく果てを見ていると
霧が出てきた
ひょっとしたらまだ
立っているかも知れぬ木の下のヤブランは
冷気のなかで
黒い実をつけているだろうか
そうなのだ。「木」ではないのだ。
だからこそ、7連目。「ホトリ ホトリと折って」というやわらかな響きのことばが選ばれている。
「人間」、いや「人間」をも超越したもの、「木」にも「人間」にも、あらゆるものにも通じる「いのち」なのである。
「いのち」の行く末を見る。凝視する。そのとき、そこに何があらわれるか。記憶である。生きているものの記憶、生きて実を結び、いのちを繰り返すものの記憶である。
「死」は、そういう「いのち」の記憶を反復するためにある。そのために、ことばがある。そして、いくつもの「いのち」を融合させるために「比喩」がある。
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