リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(11)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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白い風景    リッツォス(中井久夫訳)

気づかれないで彼は去った。戸のところを踏む足音も聞こえなかった。
夜中とうとう雨が降らなかった。奇蹟だ。
あくる日ははてしない冬の日射し。
それはそっくり、白い洗面所で
髭を剃ってるだれかさんに。
濡れた柔らかな紙で目に見えない手が拭いた鏡に顔を映して--。
剃刀は切れない。皮が赤くなる。髭があちこちに残る。
胸が悪くなるオー・ドゥ・コローニュの匂い。



 孤独の風景。男色のふたりの別れを描いているのだろうか。
 2行目、「夜中」は「よるじゅう」と読むのだろうか。雨が降れば「彼」は出て行けない。けれども雨が降らなかったので、濡れることなく(ためらうことなく)出ていった。そして、冬の、何もない透明な日差しだけが、その何もなさの上に降り注ぐのである。
 真っ白。
 この白から、ことばは「白い」洗面所へ動き、そこで男に髭を剃らせる。髭を見るときは鏡を見る。鏡が映し出すのは自分の姿だが、それは同時に「彼」の姿でもある。男は同じように、朝、髭を剃る。そういう「肉体」が、他人になってしまった二人の間で反復される。
 「肉体」は不思議なもので、それぞれの人間にひとつなのに、ある瞬間、共有するのだ。それは、たとえば、この詩に描かれている「髭を剃る」という行為の反復のなかで、という形をとることもあるが、もっと別なものもある。たとえば、だれかが腹を抱えるようにしてうずくまっている。それを見るとき、私たちの「肉体」は無意識にそういう姿勢を反復している。「肉体」の内部で。そして、あ、このひとは腹が痛いんだとわかる。「肉体」と「肉体」の間には「空気」があって、ふたつの「肉体」を分離しているにもかかわらず、そのとき、何かが共有される。
 そういうことが、人間にはあるのだ。(ほかの動物にもあるかもしれない。)そして、そういうことが人間と人間の結びつきをつくるのである。そして「空気」が共有される。「こころ」が浮かび上がる。「思い出」がよみがえる。「空気」を呼吸するたびに。
 「濡れた柔らかな紙で目に見えない手が拭いた鏡に顔を映して--。」というのは、「彼」は、そんなふうにして鏡の曇りを拭いていたということを思い出したのだろう。
 この思い出が、胸をかきまわす。強い匂いの「オー・ドゥ・コローニュの匂い」のように。嫌いだ。そして、その嫌いだというこころが、孤独にはせつない。