リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(9)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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さかさま    リッツォス(中井久夫訳)

大気の中に根。根の間に顔が二つ。
その庭の底に井戸が。
彼等が昔、指輪を投げ入れた。
それから高い空を見上げた。
ばあさんが一人、大きな林檎をかじりながら
空っぽの植木鉢にオシッコをしてるのを
見ないフリをして。



 「大気の中に根。」というのは逆さまである。従ってこれは、水に映った木のことである。水に映った木は逆さまになっている。根は大気の中にあることになる。もちろん、それは見えないが、見えなくて当然である。大地の中にある根だって見えない。そこに「ある」と人間は想像しているだけである。そうであるなら、大気の中に根が広がっていると想像しても何の不思議もない。
 二人(男女だろう)は、その見えない根の間から顔を覗かせる。つまり、水面を覗き込む。そして、その水面というのは井戸である。その井戸には、二人の指輪が沈んでいる。眠っている。二人は、その指輪に顔を近づける。それは、井戸に映った高い高い空を見上げるのと同じことである。二人は、その高い高い空に近づいていく。投身する。
 悲劇である。

 この悲劇の瞬間、その庭のすみっこ、植木鉢におばあさんがオシッコをしている。
 悲劇(聖)と「俗」の遭遇。これは、リッツォスの詩のなかに何度も登場してくる組み合わせである。聖と俗の組み合わせが、聖をより聖の高みに運ぶ。
 どんな聖も、すぐとなりには俗がある。
 そして、聖は、たとえば、この詩に書かれている「根」のように、「大気の中」にある。何かに映したときに、逆さまの形で、想像力の中に姿をあらわす。それは肉眼では見えない。こころの動き、精神の動きのなかでのみ、姿をあらわすものである。そういう姿を映すための「鏡」として、「俗」が描かれる。リッツォスの詩のことばは、そんなふうに動いている。