溶解 リッツォス(中井久夫訳)
時として言葉はひとりでに訪れてくる、木の葉のように--。
目に見えない根が、土壌が、太陽が、水が木の葉をたすけた。
朽ち葉もたすけた。
意味がすっとつくことがある、木の葉の上の、蜘蛛の巣のように、
あるいは埃のように、あるいはきらきら光る露玉のように。
木の葉の上では少女が自分の人形を裸にしてはらわたをえぐっている。
露の滴が一つ、髪の毛にかかった。頭を挙げた。何も見えない。
雫の冷たい透明性が彼女の身体の上で溶けた。
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この詩も、前半と後半で印象ががらりとかわる。前半は詩の幸福を描いているように思える。詩は、ひとりでにやってくるものである。探していてもなかなか見つからず、忘れたころに突然やってくる。その気まぐれな訪問を制御することはできない。詩のことばは、突然やってきて、そのことば自体の力で拡大してゆく。詩の領土をひろげていく。
ここからかが、とてもおもしろい。
後半である。その拡大もまた、制御できないのである。異様なものも「意味」として呼び寄せてしまう。意味をひろげて行ってしまう。「人形を裸にしてはらわたをえぐる」。それは残酷なことだろうか。歪んだ行為だろうか。だが、そんなふうに不気味に見えるものの上にも、透明なものがやってくる。美しいものがやってくる。その、不思議な出会いを、ひとは制御できない。それは、やってくるように見えても、ほんとうは、深い深い根が出発点かもしれないのである。「雫」の光は、根があってはじめて可能なのもかもしれない。
大切なのは、それがどんなものであれ、出会って、溶け合う。溶解する。
詩は異質なものの出会い。それは、どんなに対立しても、出会いの一瞬において、どこかで完全に溶け合っている。溶け合うものがないかぎり、そこには出会いはない。反発しながら、出会い、溶け合う。その不思議な運動のなかにこそ、詩がある。
リッツォスの詩が、前半と後半で変わってしまうのは、その変わること、ことばが勝手に運動していく力こそが詩だからである。リッツォスは「存在」としてての詩ではなく、「運動」としての詩を書いている。ことばは動いていくことで詩になる。