暗闇で リッツォス(中井久夫訳)
日暮。点灯夫が通り過ぎた、梯子をかついで。
島のランプをともしてまわる。ドリルで暗闇に孔を開けてまわるように。
あるいは大きな黄色の泉を掘って歩くように。泉の中で
ランプは青銅色になり、上向きに揺れ、海に溺れる。
セント・ペラギア教会の鐘楼の上で十字がきらりと光った。
一匹の犬が馬小屋の後ろで吠えた。もう一匹が税関のところで--。
宿屋の看板が血を流した。男は胸をはだけて
大きなナイフを握る。女は
髪をさんばらにしたまま鉢の中の卵の白味を練る。
*
前半は、とても美しい。詩を特徴づけるもの比喩であるとしたら、これはまさしく詩である。夕暮れに街灯の明かりがぽつりぽつりとついてゆく。闇と光の対比。「ドリルで暗闇に孔を開けてまわるように。」は新鮮で気持ちがいい。
しかし、次の比喩はどうだろうか。
あるいは大きな黄色の泉を掘って歩くように。
色は鮮やかだが、とても不思議だ。なぜ、黄色い泉? だいたい「泉」は「天」にはない。「地」にある。人間が立って歩く、その足の下にある。
暗闇に孔を開け、そこから黄色い泉があふれだしたら、どうなるだろう。人は溺れてしまう。--あ、ここには、不思議な死がある。「島」の暮らしのひとがいつも感じている死がある。つまり、海で難破して、溺れて死んでゆく人間の、日常としての死がある。
このイメージと非常に似通った死があった。「タナグラの女性像」のなかの、「救済の途」。嵐の夜、女は大波が階段を上ってきて、ランプを消してしまう、と恐れていた。
そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。
水の中のランプ。そして、死。--夜の、死。
「島」にあって、死は昼の出来事ではなく、夜の出来事である。夜を知らせるランプ、ランプに明かりを灯して歩く男は、また、死を連れてくる死神でもあるのかもしれない。死神にさそわれるように、事件が起こる。
宿屋の前では、男が刃傷ざたを起こしている。そこだけではなく、いくつかの場所で。そして、犬が吠えている。死を、あるいは死に近いことがらを見てしまって。
そういうときも、日常はつづいている。女は、いつものように懸命に卵白をあわだてている。料理のために。日常があり、その日常をまったく無視して死は同じように存在する。日常と死を、並列の物としてみつめる詩人がここにいる。そこには、あるいは内戦の苦悩が反映しているかもしれない。内戦の、繰り返される死が、影響しているかもしれない。非情な死が。
リッツォスの詩の透明さは、そういう死と隣り合わせに生きる人間の孤独のせいかもしれない。