リッツォス「棚(1969)」より(7)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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視力を回復した少女    リッツォス(中井久夫訳)

あっ、と彼女は言った。また見えるようになったんだわ。何年も自分のものでなかった眼。眼は私の中に沈み込んでいた。暗い、深い水の中に沈んだ二個の鋳型のような小石だった。黒い水。今は--。雲ってあれなのね。薔薇ってこれなのね。木の葉がこれ。緑ね。み-ど-り。これ、私の声ね。そうよね。私の声、聞こえて? 声と眼--これね。自由ってものはこれね。あ、下の地下室にお盆を忘れてきたわ、大きな、ほら、銀の。それにカード・ボックスも、鳥籠も、糸巻も。



 私はこの詩が大好きだ。「これ、私の声ね。」ここが、大好きだ。
 少女は声を取り戻したのではない。視力を取り戻した。けれど、視力を取り戻すことは単に見えるようになったということを超えるのだ。新しい感覚が、それまで眠っていた別の感覚、肉体の意識を呼び覚ます。その結果、いままでと同じものであるはずのものも、違った風に感じられるのだ。
 そして、そのあと。

自由ってものはこれね。

 あ、そうなのだ。自由とは、いままでとは違った感覚の融合のことである。新しい感覚の発見のことである。
 声が変わったのは(「私の声ね。」と確かめずにいられないのは)、喜びのためにほんとうに声が明るく変わったのか、それとも耳の感覚が視覚に影響されて変化したのか--それは、わからない。また、わかる必要もない。必要なのは、人間の感覚というのは、そんなふうにいつでも生まれ変わるということを知ることだ。
 そして、そういう新しい感覚こそが「自由」なのである。

 詩の存在理由はここにある。
 詩は、いままで存在しなかったあたらしい感覚の動きをことばで書き表す。それは人間の可能性の表現であり、そういう可能性こそが「自由」なのである。「自由」になるために、人間は、リッツォスは詩を書くのだ。

 だから、銀の盆、カード・ボックス、鳥籠、糸巻は、ほんとうに地下室に「忘れてきた」のか、捨て去ってきたのか、これも実はわからないことになる。盲目だったとき、それらはきってと、少女のかけがえのないよりどころだった。いま、視力を取り戻し、新しい世界に、自由な世界に生まれ変わったのだから、もう少女は、それらを「よりどころ」としなくても大丈夫なのだ。
 大丈夫だから、「忘れてきたわ」とは言うものの、「取りに戻らなければ」とは言わないのだ。