それほど小さくない リッツォス(中井久夫訳)
もうすこし。何だって? 彼は自分が分かってない。付け加えるんだ。何に付け加える?
どうする? 彼は分かってない。分かってないのだ。これだけの意志だ。彼のものだ。
巻き煙草を一本取る。火を付ける。外は風だ。教会の墓地の棕櫚の樹が倒れるのでは?
でも時計の中には風が入らない。時間は揺れない。九時、十時、十一時、十二時、一時。隣りの扉の部屋には食卓をしつらえつつある。皿を運んでる。老婆が十字を切る。匙が口に動く。パンが一片テーブルの下に落ちている。
*
これは何を描いているのだろうか。リッツォスの詩は説明がないので想像力がいる。
私はこの作品を死んだ男を描写していると読んだ。葬儀(?)のとき、棺のなかの男。その遺体に「付け加える」。何を? 言った本人もわからないかもしれない。ただ今のままでは不憫だ。そういう思いがあふれてきて、思わず「付け加えるんだ」と言ってしまった。
その場所からは教会の墓地が見える。そこに埋葬される男。
そういうことを具体的に書かないのは、リッツォスにとって書きたいことが、男の死そのものではないからだろう。
何を書きたいか。
たとえば、たばこ。葬儀のとき、埋葬の前の時間。そういう時でも、人間は日常を繰り返す。たばこを吸う。たばこを吸いながら外の景色を見る。風が強いなあ、と思ったりする。死んだ男のことを考えているわけではない。
同じように、葬儀のあとには会食がつきものである。そういう準備が扉の向こう、隣の部屋で進んでいる。
一方に死があり、他方に日常がある。その日常の時間は、ある意味で非情である。時間そのもののように決まった形で進んで行く。そこには何も入り込むことはできない。悲しみにうちひしがれる人を描くのではなく、悲しいときにも日常があると正確に書く。それは、もしかすると、その日常が悲しみにくれているだけの余裕がないからだともいえる。たとえば、内戦の最中であるとか……。
そして、また、この非情な日常が、人間の孤独を浮き彫りにする。どんなときでも生きていかなければならないという淋しさを浮き彫りにする。--そういう、きっぱりとした生きる力をいつもリッツォスに感じる。