リッツォス「反復(1968)」より(2)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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敗北の後    リッツォス(中井久夫訳)
アテネ人はアイゴスポタモイで撃破され、
決定的敗北が続いた。自由な議論が、
ペリクレス期の栄光が、
芸術の開花が、ギュムナジウムが、哲学者の饗宴が、
みんな失われた。今は陰鬱な時代だ。
市場には重苦しい沈黙。三十人僣主の驕り高ぶり。
すべてふとしたあやまちで起こったことだ(さらに切実にわれらのものなるものでさえ)
訴える機会はなかった。弁護も擁護も、
形だけの抗議されも。パピルスも本も焼かれた。
わが国の誉れは朽ちた。旧友でさえ、
よしんば証人に立つことを認められても、
恐怖して、似たかかわりあいになりたくないと断るはずだ。
むろん、それが正解だろう。だからここにいるのがまだましだ。
鉄条網の後ろで
海と石と野の草から成る世界の切れ端を眺め、
夕雲が紫に染まって低く動いていくのを眺めていれば、
新しいものに触れられそうだ。
いつの日か、新たなキモーンがやってきて、
ひそかに、同じ鷲に導かれ、ここを掘って、われらの鉄の槍の先を掘り出すだろう。
錆びてぼろぼろで使いものにならないだろうが、
アテネに行って、勝利の行列か、葬列かのなかでこの槍を捧げ持って歩んでくれるかもしれない、音楽の演奏の中で、花綵(はなづな)に飾られて--。



 リッツォスの詩にしてはかなりことばが多い。ことばの情報が多い。こういう作品は、私は、あまり好きではない。ことばがあふれかえって、ことば自身が持っている「孤独」が見えにくくなる。リッツォスのことばは皆孤独であり、それが美しいと感じる私には、この詩は長すぎる。
 唯一、気持ちよく読むことができるのは、
鉄条網の後ろで
海と石と野の草から成る世界の切れ端を眺め、
夕雲が紫に染まって低く動いていくのを眺めていれば、
新しいものに触れられそうだ。
 この4行である。特に「海と石と野の草から成る世界の切れ端」が好きである。「国破れて山河あり」ではないが、人間と無関係にそこに存在している「自然」が「無関係」ゆえに清潔である。「切れ端」が少しめくれあがって、そこから世界が変わっていく--そういう夢想を、孤独な夢想を誘ってくれそうである。あるいは、切れ端がちぎれていって、ここではないどこか遠くへ連れていってくれるかもしれない--そういう夢想に誘ってくれる。そこにはやはり、海と石と野の草があるのだ。
 そんなこことを思った。