大岡信「前もつて知ることはできぬ」 | 詩はどこにあるか

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大岡信「前もつて知ることはできぬ」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 大岡信「前もつて知ることはできぬ」の初出誌紙は『鯨の会話体』(2008年04月)。
 大岡の詩を読むと、ことばの運動が詩なのだということがよくわかる。ことばが動くことでしか明らかにできないものをとらえるのが詩であるということが、とてもよくわかる。作品の書き出しの2連。

われわれは前もつて
持つことはできぬ、
愛するものの
完璧なイメージを。

こなごなに壊されてしまつてから
それはやうやく
真にわれわれのものになる
いとほしい思ひ出となって--

 取りかえしがつかない、あるいは不可能を知ったときに、その不可能性のなかでのみ、何事かが生成する。その動きが詩なのである。思い出は過ぎ去るものではなく、つねに生成してくる。過去から今へと生成してくる。そのとき、詩が生まれる。
 この詩で、私はひとつだけ気がかりなことがある。

こなごなに壊されてしまつてから

 この行の「壊されて」が、なぜか気になる。
 この詩には、「戦争はすべてを手遅れにする」という副題がついている。「戦争」が「愛するものの/完璧なイメージ」を壊してしまう。戦争によって、壊されてしまう。そういうことを描くことで、反戦を訴えている。それはたしかによくわかるのだが、「壊されて」が気になる。
 もしこれが「壊してしまってから」なら、私は、そんなに気にならなかったと思う。

 「壊されて」には、何か「被害者」のイメージが残る。戦争の前ではだれもが被害者、犠牲者だから、「壊されて」でかまわないのかもしれない。しかし、世界には、被害者、犠牲者だけが生きているのではなく、どこかに加害者もいる。私たちは加害者かもしれないという視点が、論理を明確に(ことばの運動を明確に)しようとするこころによって、すーっと、こぼれてしまっているような気がするのである。





鯨の会話体―詩集
大岡 信
花神社

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