顔か表看板か リッツォス(中井久夫訳)
彼は言った、--この石の彫像は私が彫ったものだが、
ハンマーを使わず、素手のこの指で、この眼で、
素裸のわが身体で、私の口唇で彫ったので、
今では誰が私で誰が彫像か、分からなくなりました。
彼は彫刻の陰に隠れた。
彼は醜い、醜い男だった。彼は彫刻を抱擁し、抱き上げ、腰の周りに手を廻して
一緒に散歩した。
それから彼はこう言った。おそらくは
この像のほうが私でしょう。(実に素晴らしい像だった)。いや、この像は
独りで歩くのですとまで言った。だが誰が信じるか、彼を?
*
どんな作品であれ、つくられたものは作者を代弁する。そこには作者が含まれている。いや、含むのではなく、作者そのものである。鑑賞者にとってだけではなく、作者にもそういえる場合がある。作品がすべてである。作品以外に「私」といないのだ、と。リッツォスは、彫刻家に託して、そういう「人間」(芸術家)を描いている--という「意味」を主体にして読んでしまうと、この作品は、ただそれだけでおわってしまう。
それでもいいのだろうけれど、何か、そういう「意味」で作品を読んでしまうと、「おもしろい」という部分がなくなってしまう。と、私には思える。
私がおもしろいと思うのは、たとえば3行目の「私の口唇で彫ったので、」という「口唇」ということばである。くちびるで石を彫るということは、現実にはできない。そのできないことをリッツォスは書いている。同じようなことばが2行目にある。「この眼で」彫った。「眼」でももちろん石を彫るということはできない。しかし「眼」で彫るといった場合、口唇で彫るというときほど違和感はない。たぶん、眼が見たまま、眼の見たものを彫ったという意味で、「眼で彫る」という言い方は可能だからである。その「文法」を流用すれば「口唇で彫る」とは「口唇で味わったもの」を彫るということかもしれない。「口唇」が味わいたいものを彫るということかもしれない。
ナルシシズム。--私は、ナルシシズムを感じる。それも、非常に肉感的なナルシシズムである。ナルシスのように「眼」だけで「美」を感じるのではない。肉体全体で味わうナルシシズムを感じる。官能的なナルシシズムだ。
そして、それ、石像ではなく、ナルシシズムは、たしかに「独りで歩く」かもしれないとも思う。
--と書いてしまうと、また別の「意味」があらわれてしまうので、どうもいやな気持ちになる。
私は、この詩では3行目の「口唇で彫った」ということばはとても好きだ。そのことばにうっとりしてしまった、とだけ書けばよかったのかもしれない。