目黒裕佳子『二つの扉』(2) | 詩はどこにあるか

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 目黒裕佳子『二つの扉』(2)(思潮社、2008年11月30日発行)

 目黒裕佳子のことばは私の知らない世界から響いてくる。そして、知らないはずなのに、とてもなつかしい。「鬼の子守唄」という作品。

子守唄が呪ひのごとく聴こえた夜
わたしはすっかり目をさまし
まるで世界中でもっとも覚醒した子供のやうに
鬼退治にでかけた

 火が
燃えてゐた
重たい雪のどっしり降る夜ふけ
燃えてゐたのは
雪だった

雪のまはりを
数百匹の鬼たちがうろついて
あんなに鬼のゐるくせに あたりはしんしん静まって
あんなに燃えてゐるくせに あたりはしんしん寒かった

 昔物語のような夢。夢のような物語。--これが、なつかしく感じるのは、そのことばが肉体を通っているからである。「声」になっているからである。「頭」で動いてしまう「文字」ではなく、喉という「肉体」を通って動く声になっているからである。
 旧かなづかいで書かれているけれど、ことばのリズムは口語である。口語のなかの、口語でありながらやはり日本語は日本語の肉体のままにきちんと活用するということを踏まえて動いていくリズム。それが、不思議に、ぴったり息があっている。(これは、ほんとうは不思議なことではなく、自然なことであり、新式?のかなづかいが日本語の肉体を壊したということなのかもしれないけれど。)
 とても読みやすいだけではなく、思わず、そのことばを繰り返して読んでしまう。

あんなに鬼のゐるくせに あたりはしんしん静まって
あんなに燃えてゐるくせに あたりはしんしん寒かった

 こういう行に会うと、私は、もう夢中になってしまう。何度も何度も、その行を繰り返して読んでしまう。私は音読はしないけれど、目で読むだけなのだけれど、喉が無意識に動いている。舌が無意識に動いている。耳が、肉体の中でなっている音を聞いている。

 作品の後半。

 鬼が
鬼のなかを出入りし
わたしのなかを出入りし
その激しさに
目を眩ませたまま

 鬼が
わたしを抱きとめた

 その鬼が
寡黙に降りつづける
夜が
いとほしかった

 うらごゑの鬼たち
 眼をあけた子どもたち
 夜たち

 書かれている内容は(意味は?)、子どもの昔話の領域を超えるのだけれど(きのう取り上げた「キリン」と「鬼」は似ているかもしれない)、子どもと大人(?)をつらぬいて存在する「肉体」の何かとつながっている。子どもと大人の肉体はまったく別だけれど、それは切れ目なくつながって「ひとり」になる。その「ひとり」になる感じが、ことばのなかに残っている--と、私には感じられる。
 この子どもと大人をつらぬいて「ひとり」であることの不思議さ、ことばでは追いきれない何かが、目黒のことばからはあふれている。正しい(?)ことばではいえないことがある。間違った(?)ことばが偶然つかんでくるものもある。たとえば「キリン」ということばが、なぜか動物の「キリン」を超えるものをつかんでくることがある。「鬼」もおなじである。そして、その間違いと正しいのあいだにあるひとつづきのものというのは、どこかで子どもと大人のあいだにあるひとつづきのものと似ていると私は思う。そのおなじものを目黒のことばは、とても自然につかまえてきている。それがあまりに自然なために、どこから分析すれば(?)、解説すれば(?)、目黒のことをきちんと伝えられるのか、私には、まだ見当がつかない。
 だから、ただ繰り返していうしかない。おもしろい。不思議だ、と。
 「鬼たち」「子どもたち」「夜たち」。
 あ、「夜たち」。
 なんという楽しい日本語。とても自然に出てくる文法やぶりのことば。文法やぶりなのに、きちんとことばが描き出すものがわかる不思議さ。
 いいなあ。




二つの扉
目黒 裕佳子
思潮社

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