リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(1)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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陶工    リッツォス(中井久夫訳)

壺も造った。植木鉢も。土鍋も。
粘土が少し残った。
女を造った。乳房を大きく丁寧に。
彼の心は揺れた。その日の帰宅は遅れた。
妻がぶつぶつ言った。彼は返事をしなかった。
翌日はもっと沢山の粘土を残した。翌々日はもっともっと。
彼は家に帰ろうとしなくなった。妻は彼を見限って去った。
彼の眼は燃えさかる。上半身裸。赤い腰帯を締めて、
夜をこめて陶土の女たちを練る。
明け方には工房の垣根の彼方に彼の歌声が聞こえる。
赤腰帯も捨ててしまった。裸。ほんとうに裸。
彼の周りには、一面、空の壺、空の土鍋、空の植木鉢、
そして耳も聞こえず目も見えずものも言えない美女たち、
乳房を噛み取られて--。



 寓話のような詩である。つくったものに魅せられて、そこからのがれられなくなる。ここに描かれているのは「陶工」だが、そういうことは詩でもあるかもしれない。ただ、同じものだけをつくるということが。

 この作品では、私は2行目が好きだ。2行目の「少し」ということばが。そして6行目の「もっともっと」ということばが。
 「少し」であるからこそ、逸脱してしまったのだ。最初はいつでも「少し」なのだろう。「少し」逸脱する。「少し」なので大丈夫(?)と思い逸脱する。そして、それを繰り返してしまう。「少し」から「もっともっと」への変化。その変化を、リッツォスは素早く書いている。中井は素早く訳している。
 たぶん、「もっともっと」が一番の工夫なのだと思う。
 「もっともっと」のあとには「沢山」が省略されている。省略することで、ことばにスピードが出る。そして、そのスピードにのって、ことばが加速する。加速して、逸脱していく。「陶工」が常軌を逸していく。
 この陶工の恋は狂おしい。加速するだけで、減速することを知らないからだ。1行目に出てきた「壺」「植木鉢」「土鍋」ということばをひっぱりだしてきても、もう、もとにはもどれない。逆に、「過去」によって、「いま」がさらに逸脱していることが浮き彫りになるだけである。
 この対比も、とてもおもしろい。