リッツォス「証言B(1966)」より(37)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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最初の喜び  リッツォス(中井久夫訳)

誇り高い山々。カリドロモン。イテ。オスリス。
こごしい岩。葡萄の樹。小麦。オリーヴの茂み。
ここは石切り場だった。昔の海の引いた跡だ。
陽に灼けた乳香木のいつい香り。
樹脂が塊になって滴っている。
大きい夜が上から降りて来る。あそこだ、あの山稜のあたりだ、
まだ少年のアキレスが、サンダルを履こうとして、
かかとを掌に包み、あの特別の快楽を感じたところは--。
水鏡に己の姿を見て一瞬こころここにあらずになった。それから
気を取り直して鍛冶屋に楯を注文に行った。
彼には今分かった、形が隅々まで。楯に色々な情景が描かれていた。
等身大で。



 この作品もまた前半と後半でことばの動きが違う。描いている世界が変わる。前半は自然の情景。そして、後半は人間がつくりだした光景である。こころの動きが世界をかえてしまう。
 「特別な快楽」について、この作品は具体的には書いていない。ギリシア神話に詳しいひとならアキレスのエピソードのいくつかを思い出すだろうか。一番有名なのはアキレス腱のエピソードだろうか。不死のはずが、母がかかとをにぎっていたために、そこだけ不死の水に浸されず、死の原因になった。
 そうすると、この「快楽」は「死の快楽」ということになるだろうか。誰でもが死ぬ。死ぬことができるという快楽。逆説としての快楽。そうであるなら、水鏡に映った己の姿とは死んで行く姿だろう。死んで行く己を見るというのも、不死を約束されたはずの人間には快楽かもしれない。知らないこと、体験できないはずのことを体験できる、不思議な快楽、絶対的な快楽。その瞬間、アキレスはアキレスを超越する。アキレス自身を超えて存在してしまう。
 そして、わかったのだ。楯に描かれている戦場の詳細が。戦場の情景のすべてが。
 「等身大で」というのは、実際にその大きさというよりも、比喩だろう。「等身大」の大きさで、歴史が、つまりこれから起きることが分かったということだろう。

 その瞬間にも、山々はおなじ姿をしている。岩も葡萄もオリーヴも。だからこそ、人間の悲劇が美しく輝く。