渋田莉子「最高の運動会」 | 詩はどこにあるか

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渋田莉子「最高の運動会」(「朝日新聞」福岡版2008年12月12日)

 「小さな目」というこどもの詩を紹介するコーナーがある。その作品。後半部分。

もう少しで私の出番
心臓がバクバクして
じっとしてられなくなった
5m4m3mとせまってきた時
悠がこけてしまった
「もう少しでぬかせそう
だったのに」
でも悠はあきらめず
立ち上がってバトンを
わたしてくれた
絶対抜かしてやる
その心が熱い炎となり
燃えた
1人抜いて
アンカーにバトンをわたした
わたしにはあと応援すること
だけしかできない
心の底から応援した
結果は2位
6年生最後の
最高の運動会だった

 途中で、私は、不思議に興奮してしまった。

その心が熱い炎となり
燃えた

 この2行に感動してしまったのである。常套句である。こういうことばを、もし現代詩でみかけたとしたら、あるいは小説の中でみかけたとしたら、私は興奮はしない。感動はしない。興ざめする。しかし、この作品のなかでは興奮してしまった。
 「心があつい炎となり/燃えた」が最適のことばであるかどうかは、わからない。たぶん、もっとほかの表現の方がこどもらしい肉体をつたえられるかもしれない。しかし、渋田は、「心があつい炎となり/燃えた」と書く。
 書くことで、心をあつい炎にし、燃えさせている。
 あ、そうなのだ。ことばは、いつでも私たちより先にある。どんなことばもすでに存在している。その存在していることばを呼吸しながら、ひとはこころを育てている。ことばがなくては、こころは育たない。
 渋田にそういう自覚があるかどうかはわからないが、いま、ここで、この瞬間、渋田のこころが育っている。いままでとは違ったものになっている--そのことが、その2行から強く伝わってくる。そのことに興奮してしまった。

 こころは、そのあとにも登場する。

心の底から応援した

 ことばを得て、こころがこころになる。そういう瞬間がある。
 詩の、原型を見るような気がした。