リッツォス「証言B(1966)」より(32)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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理髪店  リッツォス(中井久夫訳)

廃墟に部屋を一つ、煉瓦でこさえた。
窓にボール紙を嵌めた。看板も出した。「理髪店」と書いた。
宵闇の忍び寄る日曜の遅い時刻、
弱い光が半ば開いた海側の扉から差して
鏡は淡い青。--若い漁夫らと
船員たちが髭を剃りに来た。
とっぷりと暮れてから彼等は帰った、反対側の扉から、
影のように静かに、うやうやしい長い長老髯を垂らして。



 この作品も前半と後半に分かれる。そして、その「ふたつ」の部分は矛盾する。あるいは、対立すると言った方がいいだろうか。
 「船員たちが髭を剃りに来た。」しかし、彼等は「うやうやしい長い長老髯を垂らして」帰った。髭は口ひげ、口の上のひげ。髯はほほのひげ。口の上のひげは剃ったが、ほほのひげは剃らなかった、と考えれば「矛盾」ではないが、それでも一種、奇妙な感じは残る。こは、「矛盾」、あるいは事実の対立があると考えた方がいいだろう。
 詩のなかの時間は、「宵闇」と「とっぷりと暮れ」た時間。その間の現実の時間は短い。しかし、この詩のなかでは1日を超える時間が存在するのだ。「理髪店」を開いたのは遠い過去。昔は、若い漁夫、若い船員がひげを剃りに来た。しかし、今は老いた男たちがやってくる。彼等はひげを剃りにくるのではなく、昔の思い出のために、理髪店へ来るのである。そして、思い出を語って帰っていくのである。「とっぷりと暮れてから」。

 「ふたつの時間」は対立しながら、響きあう。「昔」があるから「今」がある。その間には、「廃墟」のような時間がある。「廃墟」の時間によって、若い昔の時間が洗われ、いまの老いた時間が透明になる。「影のように静かに」なる。若い時間は「光」なのである。その光はたしかに「宵闇」の光であり、淡いかもしれないが、それが淡く感じられるのは若い漁夫らの肉体の力の方が太陽よりもみなぎっているからだろう。いまは、そういう力もなく、ただ「影のように静かに」(影のように静かな)肉体と向き合っている。
 ここにも、やはり孤独が描かれている。孤独をみつめる人間(理髪師)が描かれていると言えるだろう。