リッツォス「証言B(1966)」より(31)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

荷降ろし  リッツォス(中井久夫訳)

今は色に乏しい。でもいい。そう彼は言う。
野のほんの僅かの緑。おれにはこれで充分だ。
歳とともに何もかもが小さくなる。
ものが寄せ集まって溶け合うんじゃないか。
木の葉が一枚。その微かなそよぎ。それがおれのひとつの入り口だ。
おれは廊下に入る。向うの端に向かって歩く。
窓と彫像が並ぶ間を。
窓は白。彫像は赤い。
これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。ちゃんと見分けが付く。



 この詩も、私には前半と後半がまったく違ったものに感じられる。まったく違っているけれど、それは「ひとつ」である。その「ひとつ」の違い--それは外と内の違いというものかもしれない。外と内が「彼」(リッツォスの分身)のなかでしっかり結びついている。完結している。
 --この完結から、孤独とういものも生まれる。すべての存在から離れ、「ひとつ」として完結している人間。その孤独。

 外と内の結合。その融合。それを遠心・求心ということばに置き換えてみるなら、それは「俳句」の世界である。
 リッツォスの詩の簡潔さは俳句に似ているかもしれない。簡潔でありながら、そこに「ひとつ」ではなく「ふたつ」の世界があるというのも俳句に似ているかもしれない。「ふたつ」のものが一期一会の出会いのなかで「ひとつ」になる。そういう瞬間。俳句に通じる世界観がリッツォスのことばの奥には存在するのかもしれない。
 この詩のなかでは、特に、

木の葉が一枚。その微かなそよぎ。それがおれのひとつの入り口だ。

 この感じが、私のなかでは、俳句の世界そのものだ。「私」が「木の葉」になる。そして、その「木の葉」のなかにすべての世界が融合する。
 俳句は、ふつう、そう書いてしまえばそれでおしまいなのだけれど、リッツォスは俳人ではないので、そのあとすこし説明をくわえている。それが「おれは廊下に入る。」以下の行の展開である。
 「ひとつ」のなかにすべてが融合する(ものが寄せ集まって溶け合う)と、それは混沌ではないのか。なんの区別もつかない世界は理性の世界に反する--という西洋哲学。それに対して、リッツォスは、「いや、溶け合っていても、そのすべてが、ちゃんと見分けが付く」というのである。
 いちど「ひとつ」に融合する。そして、そこからすべてが生成しなおす。再生する。新しい命として生まれ変わる。
 こういう人生観・世界観にとって必要なものは、「ほんの僅か」の何かでいい。巨大なものでなくていい。「木の葉が一枚」というだけで充分である。