リッツォス「証言B(1966)」より(26)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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色彩について   リッツォス(中井久夫訳)

彼いわく、色を避けるべし。最後の最後に
せいぜい茶色、灰色。オフ・ホワイトの空間。
考え抜いたあげくに残った色。厳粛さ。だが、
彼の口は深紅色。薄い青みがかったモーヴ色の翳りが
下唇と顎の間に。



 カヴァフィスとリッツォスの違いはなんだろうか。こういう作品を読むと、必ずそう思ってしまう。
 男が男の肖像を描いている。その、モデルのとらえ方というより、モデルの対象そのものがたぶんカヴァフィスとリッツォスは違う。カヴァフィスの場合、もっと崩れている。なんというか、下卑たところがどこかにある。人を堕落させる生々しさがある。その堕落が、不思議に人間のいのちの生々しさ、生きている足掻きのようなものをを浮かび上がらせる。
 リッツォスには、そういう生々しさがない。(印象批評、記憶による感想でしかないのだが、そう思う。)
 最後の2行も、なんだか美しすぎる。人間を見ているというよりも、完璧な、すでに完成された絵を見ているような感じになってしまう。カヴァフィスだと、絵の印象は消え、生身の人間が浮かび上がってくるのだが。

 リッツォスは見ている人間、視力の詩人、カヴァフィスは触る人間、触覚の詩人なのかもしれない。
 視力と触覚の一番の違いは対象との距離である。見るためには対象から離れなければならない。触るためには対象に近付かなければならない。その距離の差が、孤独の差になってあらわれる。リッツォスの孤独は透明で冷たい。カヴァフィスの孤独は不透明で温かい。