リッツォス「証言B(1966)」より(25)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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軽業   リッツォス(中井久夫訳)

体格がいい。筋肉質だ。幾何学的図形の
どんなものにもなれる身体。反跳する。回転する。
頭を脚の間にいれる。顔が靴のかたわらで微笑っている。
跳躍。空中で踵をつかんだ。一、二秒そのまま。
また回転。それからのびる。一つの直線。
腕も脚も剥かれたよう。色が変わっていく。
肌色から濃い赤紫に。身体の底の、肉そのものの色。
彼の業は目に止まらない。完璧な裸体。ただ
立ち上がって、じっとそのまま。泣く。
それからわれわれの拍手。喝采。退場。
廊下を光が消えていく。係員がスイッチを切って回るのだ。



 軽業師の描写は、短く、断片的でありながら、連続している。短く、断片的であるがゆえに、それを連続させる「肉体」(この詩では「裸体」ということばがつかわれている)が最後に浮かび上がってくる。業を見ていたのか、「裸体」を見ていたのか。
 そして、唐突な涙。泣く。なぜ軽業師が泣いたのかは、この作品では書かれていない。多くのリッツォスの作品に共通するが「理由」は省略される。省略することで、ただ、底にある肉体を感じさせるのである。
 そうした軽業師の肉体と対照的な描写が最後の1行である。この1行は断片的ではない。連続している。現象があり、その「理由」が書かれている。廊下の明かりが消えるには理由がある。それは係員が消すからだ、と。このきわめて即物的な「理由」、現象の物理的な説明に、「係員」という人間が加わることで、そこに非情さがあらわれる。「係員」は軽業師とも観客とも違う時間を生きている。その異質な時間が、それまでの時間を洗い流していく。この瞬間、余韻が生まれる。透明で、孤独な余韻が。
 リッツォスの詩情の、この非情ととなりあわせの透明な孤独の中にある。