<創作ノート>を参照しながら、一つの恋の物語を読んでみたい。
春立てば佳き物語よむに似てよみがえりくる遠き日の想い
<ノート>には02年2月6日の日付がある。恋の歌かどうかは定かではないが、過去の或(あ)る「感情」が今では穏やかで懐かしい「思い出」になっていることが伺(うかが)える。
「恋の歌かどうかは定かではないが、」「一つの恋の物語を読んでみたい。」あ、いいなあ。ことばを読むとは、結局、自分の「読んでみたい」物語を探すことなのである。作者が書きたかったかどうかは二の次、それが自分の読みたいものに合致するかどうかが大切なのだ。
それは別のことばでいえば、自分の、ことばにならない思いを他人のことばによってすくい取ることだ。誰にでも、言いたくても言えないことばがある。自分の肉体にしみついていればいるほど、それはことばにならない。もやもやした思いだけが満ちてくる。
他人のことばは、自分の肉体とは距離がある。その、距離、少しだけ離れているものが、自分の体から何かをすくいだしてくれる。一種の客観視(?)の力で、自分が見えるのだ。
最後の部分。
時代は様々な別れをつきつけたはずだが、その後鶴見和子が開拓した普遍性を見る時、岐路の一方に立っていた人のひたすらな重さを思わずにいられない。
佐佐木という歌人を私は知らないが、きっと、いくつかの岐路があったのだろう。そこには恋がからんでいたのだろう。佐佐木は鶴見の歌に託して、佐佐木自身の恋の物語を思い出しているのだろう
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