南原充士『花開くGENE』 | 詩はどこにあるか

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南原充士『花開くGENE』(洪水企画、2008年11月01日発行)

 南原の詩には余分なことばがある。「気分」を押しつけてくるものがある。その「気分」が私は嫌いだ。詩は「気分」ではない、と私は考えている。「気分」を壊していくものが詩であると思う。別なことばで言い換えると、「気分」をつくっていくのが詩である。いままでの「気分」をたたきこわし、それまで存在しなかった新しい「気分」をつくっていくのが詩ではないのだろうか。

 「わたしはわたしに向かってなにかを言った」という作品がある。タイトルが象徴するように、そこにはいわゆる「詩的」なもの、ロマンチックな「気分」というものがない。そこには、ことばで何かをつくっていこうという批評性がある。そういうものに私は詩を感じる。「いま」「ここ」がかわっていく。ことばが、新しくなっていく--という予感に誘われ、私は、その作品を読みはじめる。
 全行。

わたしはわたしに向かってなにかを言った
思いつくことならなんでもよかった
ひとりぼっちのわたしをだれも慰めることはできなかった
あまりに長くわたしは泣き続けていた

ひとりで夜遅くまで起きていたことにわたしは気づいた
わたしは眠れなかった なにも考えてはいなかったのに
なにか熱っぽいのもが暗い灯りの中のわたしを悩ませた
わたしはなににも集中できなかった

わたしは低い音で聞きなれた音楽を聴いた
それはわたしを楽にさせ癒してくれた
それからわたしはベッドに行き すこし香水をつけて横になった

次の朝早く わたしは目が覚めた
雨がやわらかに降っていた それはわたしにはラッキーだと思えた
それまでには 昨晩なにをわたしがわたしに言ったのか忘れていた

 「なに」はついに明かされない。それでいいと思う。2連目までは、私はこの作品は傑作になるかもしれないと思って読んだ。3連目でつまずいた。4連目でいやになった。
 「気分」のことばが急に出てきて、「気分」を主張するからである。
 「すこし香水をつけて」と「それはわたしにはラッキーだと思えた」ということばがなければ、私はこの作品に対して違ったことを書いたかもしれない。興奮したかもしれない。けれど、その2か所のことばで、とてもいやな気持ちになった。南原が昨晩何を考えたのか、何を言ったのか。それを余韻のなかで信じる気持ちにならなくなった。「香水」と「ラッキー」が、余韻をかき消して、安物の、ただ刺激臭だけが明確な香水のように、脳味噌をくらくらさせる。私は鼻が悪い。揮発性の強い匂いは気分が悪くなる。
 3連目は音楽を「低い音」(あ、とても美しいことばだ、うれしくなることばだ)で聞く、それだけで十分ではないだろうか。4連目も「やわらかに」降る雨の「やわらかに」だけで十分だろう。それで十分「気分」が遠くから漂ってくる。それ以上書くと、「気分」の押し売りである。
 
 この作品の前のページ。「春の雨」も最後の行がなければ、と私は思う。最後の行がなければ、「男」は読者のなかで「永遠の散歩者」になるけれど、南原がそのことばを書いてしまうと、永遠が消えてしまう。
 書かないことによって書くことばというものがある。読者のなかで生まれてくることば--それが詩である。作者と読者の共同作業によることばの生成。それを「待つ」ということが大切なのだと思う。



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南原 充士
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