リッツォス「証言B(1966)」より(17)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

見知らぬ小物   リッツォス(中井久夫訳)

彼は見回す。ここはどこだろう? 夕陽が遠い。
荘厳な夕陽。庭の柵が見える。
ドアの把手。窓。糸杉。
でも彼は? 静かな湖に空が映っている。
空の雲に。桃色の湖。金色の縁。
あそこに靴と衣服を置いて来た。さて、
こんな裸で、道の真ん中に突っ立っておれるか?
こんな裸で、知らない家に入って行けるか?



 「彼」は湖を泳いでやってきた。「知らない家」はずっーと彼の意識のなかにあった家である。「知らない」のは、実は、その「家」の誰かだけに夢中ということだ。その夢中の相手以外は「知らない」。泳いでやってきたものの、こんな姿で会えるのか。ふいに、現実にかえってしまった彼。
 1行目の「夕陽が遠い。」の「遠い」がとてもいい。夕陽と彼との距離は一度として変わったことはない。その永遠に変わらないはずの距離が「遠い」。それは、あらゆるものが「遠い」ことの象徴である。
 湖を泳いでやってきた。その家の前までやってきた。距離は縮まった。それなのに、「遠い」。湖の向こうで見ていたときより、いま、目の前にある家の方が「遠い」。

空の雲に。桃色の湖。金色の縁。

 この1行の「空の雲に。」の「に。」が美しい。
 原文がどうなっているかわからないが、「雲」「湖」「縁」という単語の並列。「と」の省略が一般的だが、中井は「に」ということばを選んでいる。このしずかな音が、あらゆる存在から孤立している「彼」のこころの不安定さと響きあう。句点「。」もとてもいい感じだ。「空の雲に、桃色の湖と、金色の縁。」という訳でも、詩の「意味」はかわらない。けれども、そのことばのリズムがつたえる感覚が違う。つながろうとして、つながれない、そういう孤独は、「空の雲に。桃色の湖。金色の縁。」という形でないと伝わらない。

 ところで、タイトルの「見知らぬ小物」とはなんだろう。
 「見知らぬ」とあるけれど、この詩の「遠い」が現実の距離ではなく、意識の距離であったように、これは実際には「見知らぬ」のもではない。実はよく知っているものである。そのよく知っているものの欲望に突き動かされて、湖を泳いでやってきた。そして、いよいよ、というときになって、それは怖じ気づいている。慣れ親しんだ「大きなもの」ではなく、「見知らぬ小物」になっている、ということだ。
 彼は肉体からさえも孤立しているのだ。そして、その孤立のまわりで、風景はこんなにも美しい。

 この不思議。世界に生きていることの、不思議な美しさ。さびしさ。あ、美しいということは、さびしいということなのだ。
 リッツォスとは関係ないのだが、私はふいに、西脇順三郎の「淋しい。ゆえにわれあり」ということばを思い出してしまうのだ。永遠の美しさに触れる瞬間、人間は絶対的なさびしさにとらわれる。詩は、そういう人孤独の対話なのだ。