リッツォス「証言B(1966)」より(12)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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事故   リッツォス(中井久夫訳)

十八歳は過ぎていなかったろう。服を全部脱いだ。
体操でもしているみたいだった。だが何かの命令に従順に従っていることも分かった。
彼は岩の上に登った。多分、背を高く見せたかったのだろう。
それとも背を高くすると裸体が隠せると思ったのだろうか。
そんな心配は要らなかったのに。こんな時に誰が背丈を気にするか。
腰の周りの桃色の線条(すじ)彼の固いベルトのせいだ。それが裸体を強調していた。
それから、高々と跳んで、
この一月の寒さというのに、海に身を投げた。
すぐまた現れ出るでしょう、今度は十字架を高々と掲げて。



 岩の上から海に飛び込む少年(青年)。自殺というより、「事故」のタイトル通り、「事故」と受け取りたい。打ち所が悪く、死亡してしまった--そういうことを描いた詩だと思う。ここに書かれているのは「感情」ではない。少年(青年)の肉体だ。その描写--描写することばそのものが詩なのである。
 詩とは感情や内容ではなく、そのことばの描写する力なのである。

それとも背を高くすると裸体が隠せると思ったのだろうか。

 ここにあるのは、少年(青年)の傲慢な美しさだ。美しさに対する傲慢さだ。奢りだ。少年(青年)の奢りほど美しいものはない。それは少年(青年)ではなくなった人間にはけっして手に入れることのできないものである。
 美しさは裸の肉体の羞恥心を隠す。はずかしい部分を隠す。背は低いよりも高い方が美しい。だからこそ少年(青年)は岩の上で、さらに背伸びをする。
 そして美は「傷」(瑕疵)によってさらに美しくなる。腰の周りに残るベルトの痕。それは美しい肌を傷つけるが、その傷の存在が、肌の他の部分をよりいっそう輝かしいものにする。
 リッツォスは、ここでは肉体と美の関係だけを描いている。
 ほかのストーリーは飾りだ。ストーリーを書きたいのではなく、ある一瞬の美の存在、どのようにして美が存在するか、それをことばはどのように定着させることができるか。それだけが詩にとっての問題なのだ。





中井久夫著作集 (別巻2)
中井 久夫
岩崎学術出版社

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