リッツォス「証言B(1966)」より(11)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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雨の朝   リッツォス(中井久夫訳)

彼は見つめていた、雨の色を、窓ガラスの向う側に。
葦の茎の中にある滑らかな黄色と、レールの錆と、
トネリコの灰色に籠もる暗い緑と。
透明という色は最後までとって置いた。
浴室の鏡に裸体の少女が三人映っていた。
腕は上気して桃色。湯気の彼方でダンスをしていた。
一人がかがんで花をつまみあげた。髪が顔と片側の乳を隠した。
身を起こして、髪を左右に振って元に戻した。
銀の滴が五つ、鏡にかかった。彼女は花を手にしていなかった。



 色の動きが華麗だ。「黄色」と「灰色」はギリシアの映画監督、テオ・アンゲロプロスの色を思わせる。テオ・アンゲロプロスは、雨や霧、濡れた地面をとても美しく撮る。その濡れた灰色に黄色がとても美しく響く。この詩を貫くのは、同じ色の好みである。冷たい音楽である。
 ギリシアには雨が降る。雪が降る。灰色の空がある。ということを、私はテオ・アンブロプロスの映画を見るまで知らなかった。その映画の記憶がなかったら、この詩は、まったく違ったものに見えたかもしれない。

透明という色は最後までとって置いた。

 この1行の美しさには胸がふるえる。それは風景のための色ではない。彼の「こころ」のための色である。こころを透明にしたいのだ。こころが透明になる瞬間。そのときのために、彼は透明という色を風景の中に見つけることを拒んでいる。
 ところが。
 その透明は突然やってくる。彼は探してはいないのに、向こうの方からやってくる。詩のインスピレーションのように。浴室の鏡に映る少女。三人の少女。ダンスをする少女として。
 何が透明か。

一人がかがんで花をつまみあげた。髪が顔と片側の乳を隠した。

 髪に隠れている他方の乳である。見えない。見えないものが、しかし「見える」。見えないということが成り立つのは、それが「ある」ということがわかっているからである。あるのに見えない。それは「透明」そのものである。「透明」も存在してもけっして見ることができないものである。見えないから「透明」である。
 ここには矛盾がある。説明しようとすれば、どんどん、奇妙になっていくしかない何かがある。説明できないもの--詩が、ここにはある。

 最後の1行も不思議だ。

銀の滴が五つ、鏡にかかった。彼女は花を手にしていなかった。

 「五つ」はどこから出てきたのだろう。髪を振ったとき飛び散る滴が「五つ」ということはありえないだろう。「五つ」とは何か。
 「彼」と「三人」と「花」。あわせると「五つ」。--これは、うがちすぎた「算数」かもしれない。けれども、私は、やはり、そう読みとってしまうのである。「五つ」とは「彼」と「三人」と「花」があわさったもの--「一つ」になったもの。
 「五つ」が「一つ」というのは矛盾である。そんな「算数」はどこにもない。学校の授業にはない。
 しかし、詩のなかでは、そういう算数が存在する。矛盾した算数が存在する。そして、このときその算数を支えているのは「透明」という感覚なのである。みんな、「透明」。「透明」なのものが「五つ」あつまって、さらに「透明」になり、見分けがつかなくなる。「一つ」になる。そういう算数が、この詩である。