リッツォス「証言B(1966)」より(8)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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風吹く   リッツォス(中井久夫訳)

窓の向かいに大きなヒマワリ。
汚れ道。通りゆく馬から埃。
乙女はひとを待って静かに悲しげに佇む。
その顔の光はヒマワリの反射のよう。
突然腕をあげ、風を追い掛け、
馬の乗り手の帽子をひったくり、つかんで胸に押しつけ、
家に入って窓を閉める。



 「その顔の光はヒマワリの反射のよう。」に驚く。その前の「乙女はひとを待って静かに悲しげに佇む。」と印象が違うからである。「静かに悲しげに」ならば、その顔は輝いているはずがない。そのさらに1行前に「汚れ道」とあるから、なおさらである。どうして、ヒマワリの反射のようにまぶしいのか。
 次の2行でわかる。
 馬に乗っていたのは好きな人だったのだ。馬は、乙女の前を何もなかったかのように通りすぎた。その瞬間、乙女はひらめいた。帽子を奪ってやる。そして、すばやく奪いさると家に飛び込む。窓を閉める。どうしたって馬の乗り手は追い掛けてこなければならない。そして、追い掛けてきて、乙女の拒絶にあう。--乙女が拒絶されたように、今度は男が閉められた窓によって拒絶される。
 もちろんこの拒絶は、受け入れをつよく印象づけるための「わざと」している拒絶である。

 リッツォスは行動の「理由」を書かない。映画的であるのはそのためかもしれない。人間の動きを端的に描くだけで、その奥にある「心理」は読者に想像させる。わからなかったらわからないで、かまわない。そういう潔さが詩を簡潔にしている。美しくしている。私の感想はくだくだとしているから、そのリッツォスの簡潔な美しさ、運動の美しさを邪魔するだけかもしれない。
 反省。