ありし日の休日 リッツォス(中井久夫訳)
何もかも晴れ。空に雲がいくつか。
ゆりかごに赤児。磨いた水差に窓。
室(へや)の中に樹。椅子にエプロン。詩に言葉。
一枚の木の葉がきらり光る。鎖に回した鍵も。
*
清潔なイメージがつづく。特に「磨いた水差に窓。」ということばが私は好きだ。「磨いた水差」が空気の透明感を引き寄せる。「磨いた水差」によって、空気が輝きはじめる感じがする。空気は「窓」とつながっている。「窓」は当然、その前の行の「晴れ」につながっている。
初夏。そのさわやかな印象がとても気持ちがいい。「赤児」になって、ゆりかごで眠ってみたい気持ちになる。
けれども、最終行が複雑だ。「一枚の木の葉がきらり光る。」は初夏のままである。「鎖に回した鍵も。」も同じように初夏の光を反射しているものとしてとらえてもいいのかもしれない。しかし、何か、ちがった印象がある。違和感がある。
そしてその違和感は、私には「一枚の木の葉がきらり光る。」の「きらり」から始まっているように思える。「きらり」ということばはなくても、木の葉の光は「きらり」以外に考えられない。ことばを節約し、簡潔に、よりいっそう簡潔に書くリッツォスは、なぜここに「きらり」をいれたのか。わざわざ「きらり」と書いたのか。「鎖」に回した「鍵」--その鎖と鍵が「きらり」と光っているということを強調するためである。
鎖も鍵もほんとうは「きらり」と光る必要などない。それが「きらり」と光る。そのとき、そこに何が隠されているのだろうか。
何も隠れされていないかもしれない。しかし、何が隠されているのだろうかという印象を呼び覚ます。
その、不思議な違和感が、この作品の「詩」である。
タイトルの「ありし日の」ということわりも、そこにつながってゆく。きょうの休日ではない。「ありし日」なのだ。「きょう」「ここ」とは離れた時間--それが、最終行の違和感といっしょに、ゆっくりと浮かびあがってくる。