監督 D・J・カルーソー 出演 シャイア・ラブーフ、ミシェル・モナハン
映画の冒頭、「あれっ、サウンド・ オブ・ ミュージック?」と思った。カメラが山を登っていて俯瞰になる前の、あの、ぐんぐんぐんという感じ。あの上昇のリズムがそのまま冒頭につかわれている。その後、ジュリー・アンドリュースが歌いだすわけではないから、まあ、違うんだけれど。あの爽快さとはまったく違った画面になるのだから、決定的に違うのだけれど、あれ、これは何なのかなあ、と思っていたら。
そのあとがすごい。
もう、あらゆる映画のパクリ。冒頭の映像の撮り方だけではなく、途中の気分転換(?)のアクションもパクリ。(1)追ってくる飛行機を地上にあるものを直立させて衝突させるというのは、地上の車を空中へ放り上げヘリコプターと衝突させるというもの--近作。(2)暗殺のクライマックスは音楽の最後の音と一致。犯人は、音楽の最後の音にあわせて犯行を計画--古典。
(1)(2)が何かは、もちろんわかりますよね。
映画をよく見ている、研究している(?)と言えば言えるのかもしれないが、ここまでくるとあきれかえる。スティーブン・スピルバーグが製作にからんでいるのだが、ちょっとどうにかならなかったのか。少しは恥ずかしさでもみせればいいのに。
さらに(1)(2)のパクリを超える、ものすごいパクリがある。
クライマックス。キューブリック監督の、あの「2001年宇宙の旅」。宇宙飛行士と巨大コンピューター「ハル」との闘い。宇宙飛行士がコンピューターの支配(?)に疑問を感じ、コンピューターを破壊する。そのときの闘い方。コンピューターのメモリーを外していくという「2001年」そのもの。
しかし、おかしくはないか? 「2001年」の初期のコンピューターと違って、この映画のコンピューターは時代を超えて最先端を行っている。なんでもできる。それがメモリーの取り外しを防御するシステムを持たないなんて。当然、そのコンピューターのなかには「2001年」の情報だって入っているのじゃないのか?
--そんな、ちゃちゃがいれたくなる。
私は、実は、いろいろな映画のなかでも、「2001年」の、宇宙飛行士とハルとの闘いのシーンがとても好きだ。一番好き、といってもいいくらい好きだ。メモリーが取り外されるのに抵抗するように、ハルが自分の記憶をたどる。ハルが「デイジー・・・」と最初に覚えた歌を必死になって歌う。歌うけれども、メモリーが少なくなるにつれて、歌声のテンポが落ちてくる。音が低くなる。そのときの、悲しさ。
私は、このシーンで大泣きしてしまう。いま思い出しても涙があふれる。コンピューターに感情移入するなんて、自分でもなぜなのかよくわからないし、いまでも不思議でしようがないが、このシーンはほんとうに好きだ。あらゆる存在が(機械さえもが)、いのちをもってい生きている。記憶をもっている。そのことが、とても切ないのだ。
他のシーンは許せるけれど、このシーンのパクリだけは許せない。キューブリックが「哲学」にまで到達させたものを、娯楽以下のものにしてしまっている。結末が見えてしまっているものにしている。これは許せない。
先駆者への称賛をこめて作品をつくるというのならいい。「僕らのミライに逆回転」のような楽しいリメイクは大好きだ。けれど、他人が工夫して作り上げた美しいシーンだけを寄せ集めて「新作です」なんて、こんな映画がまかり通っていいんだろうか。この映画の製作指揮にあたったスピルバーグにも、なんだか怒りを覚える。映画への愛をスピルバーグは失ってしまったのか。