リッツォス「証言B(1966)」より(6)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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春   リッツォス(中井久夫訳)

ガラスの壁。少女が三人座っている。
裸体で壁の向こう側に。男は一人。梯子を登って行く。
裸足の足裏がリズミカルに一つ一つ現れては消える。赤土まみれる足の裏。
と、目くるめく光のぎらつきが庭全体を隠す。沈黙。近眼の人が眼鏡をはずされた状態。
ガラスの壁に縦にひびが入った。ひび割れの音が聞こえる。
不可視の秘密の巨大なダイアで切り裂かれたのだ。



 「春」をついて書かれたたくさんある。そして、それはかならずしも喜びであふれているわけではない。エリオットの「四月は残酷な季節」をふと思い出す。「春」はたしかに残酷なのだ。いままで眠っていた意識を呼び覚ます。目覚めた意識は、なんとてしでも新しいことをしたがる。新しいものを手に入れたがる。そのとき、どこかでかならず破壊が起きる。破壊なしには何も始まらない。

裸足の足裏がリズミカルに一つ一つ現れては消える。赤土まみれる足の裏。

 この1行が非常に好きだ。「少女」の「裸体」よりも、なぜか強烈に「肉体」を想像させる。「少女」の「裸体」はことばでしかないが、「足裏」はことばを超越している。普通は、「足裏」など見ない。見えない。その、いつもは隠されているものがリアルに見えるからである。
 この「足裏」は、しかし、どこから見ているのだろうか。誰が見ているのだろうか。
 「少女」ではない。もちろん男には見えない。詩人リッツォスが想像力のなかで見ている。つまり、孤独のなかで見ているのだ。