リッツォス「証言B(1966)」より(2)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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病むひとの一日   リッツォス(中井久夫訳)

一日中腐った臭。濡れた床板。
陽が差すと乾いて湯気が立つ。
鳥たちが一瞬屋根の頂上から覗き下ろすが、そのまま飛び去る。
夜には隣の安宿で墓掘りが腰掛けて
チリメンジャコで酒を飲んで歌う。
黒い孔の沢山開いた歌を歌う。
その孔からそよ風が吹き出し、
木の葉も光も細かにふるえる。
戸棚の縁に貼った紙もかすかにふるえる。



 「病む人」の詩といえば朔太郎を思い出す。朔太郎のことばには湿気がある。じめじめしている。それに比べるとリッツォスのことばは乾いている。「病気」の質が違って感じられる。
 腐った臭、濡れた床板--それさえもじめじめしたものの存在ではない。2行目の「陽が差すと乾いて湯気が立つ。」が象徴的だが、1行目は太陽によって否定されるための湿度である。
 朔太郎において、あるいは日本においてというべきなのだろうか。人間と人間とのあいだにあるのは「湿気」である。空気にはすでに触覚を刺激する重さがある。密度がある。リッツォスの、ギリシアの空気は乾いている。そよ風が吹き、紙さえも「かすかに」ふるえる。そういう繊細な動きをひきだす乾燥がある。

 この詩を読みながら、とても不思議な気持ちになるのは、この空気の違いだ。
 この空気から私は「病」を感じない。感じるのは、病から回復しているのに、まだ、そこにいなければならない、養生していなければならないという倦怠である。
 「ここ」に「動けずにいる」のに対して、鳥は飛び立つ。「隣」では墓掘りが歌を歌っている。みんな、「ここ」にとらわれていない。「黒い孔の沢山開いた歌」というものはどういうものだろうか。もしかすると、「音はずれ」の歌かもしれない。(ギリシア特有の言い回しかもしれない。)そういう「音はずれ」の歌であっても、こころはどこかへ飛んでゆく。自由である。
 その自由から取り残されている「私」の一日--そういうものを想像してみる。