リッツォス「証言A(1963)」(13)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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不在証明   リッツォス(中井久夫訳)

彼女は裏通りのくらい窓に姿を映してみた。
移動する光に彼女の片側が浮かび上がり、
片側には苦い微笑みが浮かぶと、
深い小皺が見えた。
「だんだん歳ね」と彼女はつぶやいた。四肢に甘くけだるい感じが流れた。
そして財布を開けて乞食に金をやろうとした。
しかし通りには乞食はいなかった。
己のしぐさが店の窓に映った。見てしまった。
無邪気な、無害な、裏返しの自己欺瞞だ--欺瞞とまで言えるか?
もう一度、己の幻に微笑みかけた。それから櫛を取り出して、
そっと髪を撫でつけた。これは確かに不在証明だ。
もう、抜け出る途は遠近にかかわらず無い。
無いが、せめて、店の窓の奥には光に照らし出された皺が
まるで小さな梯子を立て掛けたように映っているではないか。これを登れないだろうか。
だが窓ガラスの向う側、ちょうど彼女の映っている後ろで
店員が眺めていたとしたらどうなるか、目に見えない店員が?



 リッツォスの詩は映画の1シーンに似ているが、小説の1シーンにも似ている。そこに描かれているのはリッツォス自身ではない。そこにリッツォスが投影されているということはあるかもしれないが、いわゆる「私」ではない。この点が、日本の多くの現代詩とは大きく異なる。
 ここでは「彼女」が、ふと見てしまった自分の老いた姿と、それを乗り越えようとする姿が描かれている。自分を受け入れる。受け入れるけれども、それを否定したい気持ちもある。そういう矛盾を、人間は、どう乗り切るのか。
 「自己欺瞞」の例がここでは描かれている。そして、それを反省する姿も。
 それもおもしろいが、私がいちばん惹かれるのは、

まるで小さな梯子を立て掛けたように映っているではないか。これを登れないだろうか。

 この1行だ。
 窓に映った皺は「梯子」ではない。けれど、その小さな段々の模様を「梯子」と思い込む(思い込もうとする)想像力。細部をしっかり見つめ、見えたものを少しずつ拡大し、違うものに変えていく--その想像力は、たしかにリッツォスのものなのだと思う。
 この詩自体が、そういうものでもある。
 街角でみかけたひとりの女性。窓に自分の姿を映して、ふと、もの思いにふけっている。その姿から、彼女が考えていること、感じていることを、ことばにしてみる。

 このとき、リッツォスはどこにいるのか。

 リッツォスは、その詩のなかでは「主人公」として登場しない。登場しないことによって(不在であることによって)、逆に、そこではないどこかに存在することになる。ひとは、そんなふうに自分を動かしてみたいときがある。
 ちょうど「彼女」が「これを登れないだろうか。」と想像するとき、「彼女」は「彼女」自身ではないように。梯子をのぼるのが「彼女」なら、窓に映っている皺は「彼女」ではない。ひとは同時に同じ場所にいることはできないのだから。

 これは解決できない「矛盾」である。そういう「矛盾」を生きるために、ひとは「細部」にこだわる。「細部」を見つめることで「矛盾」を一瞬だけでも忘れてしまうかのように。




家族の深淵
中井 久夫
みすず書房

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