リッツォス「証言A(1963)」(11)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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聞こえるのと聞こえないのと   リッツォス(中井久夫訳)

突然の予期せぬ動き。かれの手は、
傷をつかんで血を止めようとした。
弾の発射音も飛翔音もぼくらは聞かなかったが。
しばらくあって彼は手をだらりと下げて微笑った。
が、また掌をそろそろとその箇所に当てた。
折りたたみの財布を取り出し、
ウェィターに行儀よく支払って出て行った。
それから、ちいさなコーヒー茶碗にひびが入った。
少なくともこちらのほうははっきり聞こえた。



 テオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」の時代をふと思った。そして、テオ・アンゲロプロスを思い出したからだと思うけれど、ふたたび、映画について思った。リッツォスはほんとうに映画に似ている。
 この詩は、この詩のカメラは、テオ・エンゲロプロスの好きな「長回し」である。カメラは切り替えなしに、「彼」の動きを追っていく。
 消音銃の弾が「彼」の腕に命中する。消音銃なので、音は誰も聞かない。聞こえなかったけれど、「彼」の動きからすべてがわかる。わかって、緊張する。その緊張が、「彼」の動きを長回しのカメラのように、とぎれることなく追っていく。カメラの焦点(中心)は手、血、だらりとした感じ、微笑とさまようが、「彼」そのものからは外れることがない。「折りたたみの財布」とわざわざ財布の形状を描写しているのは、「ぼくら」の視線が、そういう細部までもしっかり見ている、「彼」に釘付けになっているという証拠である。細部の的確なアップによって、「場」の緊張感がくっきりと浮かび上がる。カメラは細部をとらえるように見えて、ほんとうは「場」の「空気」をとらえているのである。リッツォスのことばは細部をとらえているようで、ほんとうは「場」の「空気」をとらえているのである。
 最後の2行がすばらしい。

それから、ちいさなコーヒー茶碗にひびが入った。
少なくともこちらのほうははっきり聞こえた。

 「彼」がいるあいだ、「ぼくら」は「視線」そのものになっている。「視線」で状況を判断しよう、理解しようとしている。そのため「聴覚」が封じこめられている。それほど「場」は緊張しているのである。
 「彼」が出て行った。ほっとする。「視線」で追いかけるものがなくなって、緊張がとけて、「聴覚」が戻ってくる。そしてコーヒー茶碗にひびが入るときの、かすかな音を聞き取ってしまう。これは耳を澄まして聞くのではなく、自然と聞き取ってしまうのだ。緊張も人間の感覚をとぎすますだろうけれど、解放が感覚を広げるときもあるのだ。



 映画について書いたので、もう少し追加。
 この詩に見られるような鋭い視覚と聴覚の関係は、テオ・アンゲロプロスよりも、スペインのビクトル・エリセが近いかもしれない。「みつばちのささやき」の抑制の聞いた音楽--映像の奥からふっとわいてくる音楽をふと思い出した。
 リッツォスの詩は、カメラだけではなく、音も映画的に動く。





清陰星雨
中井 久夫
みすず書房

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