彼は遠くからランプの光を弱くする。椅子を動かす。
触らずに。彼は疲れる。帽子を脱いで、それで自分を扇ぐ。
次に秘密を打ち明けるしぐさで耳の脇からトランプを三枚出す。
痛み止めの緑の錠剤をコップの水に溶かす。銀の匙で混ぜる。
水と匙を飲む。彼は透明になる。
彼の胸の中に金魚が一尾泳いでいる。見える。
そして消耗してソファに倚りかかって眼を閉じる。
「私の頭の中に鳥が一羽いる」と彼はいう。「私は取り出せない」。
巨大な二枚の羽の影が部屋一杯に広がる。
*
どの詩でもそうだが、リッツォスの詩は不親切な詩ということができるかもしれない。背景が説明されないからだ。この詩でも「彼」がどういう人間であるか、何を考えているかは、何も説明されない。
こういうとき、どうすればいいのか。どう読めばいいのか。
私は「意味」を放棄する。「意味」を求めない。そして、ただ、そこに描かれているままの情景を思い描く。
痛み止めの薬を飲み、胸に金魚を泳がせ、頭にの中には鳥がいる--という人間を思い浮かべる。不思議なことに、私には、その人間が見える。そして、あ、これはリッツォス自身なのではないか、と思う。自画像なのだ。
「頭の中の鳥」は、リッツォスが描こうとしている詩である。翼をもったことばである。それが取り出せずに苦労している。苦悩している。詩にならないのだ。「痛み止め」「緑の錠剤」「コップ」「匙」「金魚」いろいろなものが存在する。ほんとうは、「頭の中の鳥」こそを存在させたいのだが、それは頭の中に存在しつづける。--その悲しみを、その苦悩を、リッツォスはそのままことばにする。
そのとき、
巨大な二枚の羽の影が部屋一杯に広がる。
ああ、これは確かに「手品」である。書くということは、一種の「手品」かもしれない。そこに、存在の影があらわれるからだ。
リッツォスはどこかで、ことばの力を信じている。ことばは存在を出現させる力をもっていると信じている。--そういう「自画像」として描かれた詩である。私は、そんなふうに読んだ。
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