一夜 リッツォス(中井久夫訳)
その邸宅は何年も戸を閉めたままだった。
徐々に壊れて行った。手すり、鍵、バルコニー。
ついにある夜突如二階全部に明かりがついた。
八つの窓が全部開け放たれ、バルコニーの二つのドアが開いた。
ドアにカーテンはなかった。
通りかかる人は僅かだったが、立ち止まって見上げた。
沈黙。人気が無い。明かりのついた四角な空間。ただ、
壁に立て掛けた骨董品の鏡は、
黒い木彫りの重厚な枠縁を付けて、
腐って真中が凹んだ床板を映している、途方もない深さに。
*
リッツォスの詩は簡潔である。簡潔に感じるのは、そこに「説明」がないからである。「その邸宅は何年も戸を閉めたままだった。」そう書き出されれるが、「その」が説明されない。「その」というのは指示を含む。「その」という限りは、先行することばが必要である。しかし、リッツォスはそれを書かない。「説明」を省略し、いきなり始める。この作品は、そうした特徴を端的にあらわしている。
「奪われざるもの」の書き出し。「奴等は来た。」の「奴等」とは「だれ」なのかは、その後も「説明」されなかった。いつも、どの詩でも「説明」は省略される。そして「説明」が省略されているがゆえに、そのことばは「映像」としてのみ、そこに登場する。「過去」を持たない。「過去」をリッツォスは読者の想像力に任せてしまう。そして、映像に徹する。
リッツォスの詩が映画に似ていることはすでに書いたが、ここでもことばは「カメラ」となって移動するだけである。移動し、ロングから、クローズアップへ。そのとき、読者のこころは自然に動く。ロングからクローズアップへという視線(カメラ)の動きそのものに「感情」があるからである。人は感情が強くなると、その対象だけをクローズアップでみつめる。その動きをことば(カメラ)は追うだけなのである。
この詩では、そういう動きの他に、もう一つ、とても視覚的なものがある。闇と光の対比である。夜と、邸宅からあふれる光。そういう外観の描写からはじまり、ことば(カメラ)は邸宅の内部に移動し、邸宅の内部、ひとつの部屋の中で、鏡に近づく。鏡のなかには、暗闇よりももっと深い闇が映っている。床板。腐って、凹んでいる。その「途方もない深さ」。そこに、夜の闇を超越した闇がある。「こころ」の闇がある。暗い、と書かずに「深さ」と書いているのは、それが夜を超越しているからである。「暗い」ではつたえられないものが、そこにはある。「こころ」にしかとらえることのできない闇である。
簡潔である。「こころ」を、抒情を排除したまま、ことばは動く。清潔に感じるのは、そこに余分な「こころ」がないからだ。
中井の訳は、その簡潔さ、清潔さととてもよく合っている。
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